森 多美の証言

(一)
「警戒警報」のサイレンと同時に飛び起き、私は暗がりの中で学校へ出勤すべく準備をしました。
 忘れもしない昭和二十年七月二十八日、青森大空襲の夜。私は橋本小学校に勤めて一年にもならない新米先生でした。
「近頃、警報が出ても、出番なのに出てこない先生がいる。しっかり気を締めて学校を守ってもらいたい」
 と、学校長の訓示があったばかりなので、出番である私は、
「気をつけて行けや。今晩当り危ないって」
の母の声に送られて出勤しました。 
 たしかその夜は、雨が降った記憶があります。真っ暗な道を不気味に鈍く光っている水溜りを避けながら急ぎました。
 真っ黒に流れる堤川を渡り、女子師範学校(今の文化会館)の前まで来ました。
 子供の頃、「赤ちゃんを抱いた母親の幽霊がでる」と恐れていた柳の大木が黒く繁ったそばの校門も大きく開かれて、防空頭巾・黒づくめ服装の女生徒が駆け足で出てきました。きっと寄宿生でしょう。暗がりの中での彼女達はまるで忍者のようでした。私は思わず緊張で身震いしました。

 橋本小学校へ着くとコンクリートで作られた校庭の防空壕へ入っていきました。
 いる、いる。当番の先生達が千客万来のような陽気さでおしゃべりしていました。(電池かなにかで壕内は明るかった記憶があります)
 校長の気合のこと。情報によれば敵機の空襲はあるらしいことなど、話が続きました。
 ややしばらくしてから、警戒警報が「空襲警報」にかわり、少しの間をおいて、爆音が聞こえてきました。
 壕内は急に静かになりました。
「一機、二機・・・・・・」と調子に乗って耳で数えていた男子先生の顔が次第に強張ってきました。何機かわからないほど、爆音が重々しく耳を圧してきたからです。壕内は身の置き所がないくらい不気味な緊張感が流れました。
「ズン!! ズン!!」
爆撃が始まりました。
 工藤正夫先生、山道忠二先生、石岡透先生の男子先生。相馬きく先生、斉藤富美子先生、出口先生たち。お互いに目と目、顔と顔を見合わせて、一心に不安をこらえました。
 完璧な防空壕に入っているから外の様子は全く判りませんでした。
 どれくらい時間が立ったでしょう。
 工藤先生、山道先生は様子をうかがうのに重い戸を押して外へでました。
 さっと外の強烈な轟音と、わけのわからない叫びと光が、一度に戸の隙間から入って、戸が閉まると同時にもとの沈黙に戻りました。一瞬の出来事に、みんな押し黙ったまま目だけを大きく開いて情報を待ちました。
 出ていかれた男先生は帰ってこられません。
「どうしたのでしょう」
 みんな不安でいっぱいでした。
 今度は教頭の石岡先生が外へ出ましたが、すぐ戻ってきて、
「大変だ!! 裏の夜間中学が燃えている。すぐみんなで消すように」
 私達は始めて壕から出て外を見ました。
「あっ!!」
 私達は思わずそこへ立ち尽くしてしまいました。
 そこで見た光景は正に生き地獄でした。轟音を響かせながら、真っ黒い空に機体を浮かせている巨大なB29。余りの巨大さに呆然としました。焼夷弾で焼かれた青森市の炎を反映させながら、妖しいまでに美しいピンクの色を輝かして、何機も飛行しているのです。
 その下を逃げ惑う市民は、親は子の名を呼び、親にはぐれた子は泣きながら親を探し求め、恐ろしさのため半狂乱で喚き、訳のわからない叫びが渦を巻き、ゾロゾロと群れをなして、浦町駅(今の平和公園)の方向へ流れていっているのです。
 阿鼻叫喚!! これが本当の地獄の姿でしょう。その列が絶えることなく紅蓮の炎の中をB29に追い討ちをかけられ、公会堂(海手)の方から浦町駅(山手)の方へ続いているのです。青森市は大空襲のルツボだったのです。
 橋本小学校はその時点では、まだ無事でした。
 夜間中学は橋本小学校の裏手にありました。バケツに水を入れ、学校と隣接の神明様の間の百メートルを一気に駈けていきました。
 中学校は炎に包まれていて、バケツ一杯の水は何の役にもたちませんでした。
 又、空のバケツを提げて百メートルを走って戻ってくる苦しさといったらありません。
 戻ってくると、石岡先生は今度は校舎の二階を指して、
「水をかけろ!!」と怒鳴っていました。
「あぁ・・・」、その教室は四年の私の受持ち学級なのです。もくもくと黒い煙を上げているではありませんか。私はバケツに水を入れて走りました。バケツの水は二階に届くはずはありません。バケツを提げたまま、ただ二階の煙りを見ているだけでした。煙りは真っ直ぐにあがっていました。何の疑いも持たず、毎日の防火訓練は何だったのでしょう。愚かしさがこみ上げてきました。あまりにも力の違い過ぎにたじろぐばかりでした。
 気が付いてみると、男子先生はどなたも居なくなりました。きっと家族を案じて変えられたのでしょう。一番年上の相馬先生は残った女の先生を集め、
「これまでです。さあ、私達も逃げましょう」
 と、言われ、外壕の水を頭から被って逃げることにしました。普段ボウフラなどわいている水ですが、思いきって被りました。おなかの当りが変にぬるぬるした不快感は、今でも鮮明に覚えております。
 私はのろしのように煙りの上がっている校舎をふりかえり「さようなら」を心で言って逃げる市民の渦の中に紛れ込みました。

 先生たちとはすぐに逸れてしまい、人の渦を泳いでいる私には探しようがありませんでした。
 暗黙の中の紅蓮。燃えさかる街が、爆音が、叫び声が、無我夢中へと駆り立てるのです。B29は容赦なく、繰り返し襲ってきました。地上百メートルのところで、束にした焼夷弾が帯を解かれ、傘のように広がりながら落ちてくるのです。不気味な「シャー」という音で雨のように、そう、爆弾が降ってくるのです。
「爆弾が落ちたら伏せろ!!」の訓練は、この際、何の役に立つものではありません。
 上を見ながら走り、あの音が聞こえたらパッと物陰に身をかわすのです。たとえそれが燃えている建物であろうが、爆弾から身を守る方法はそれしかありません。
 掛け布団を頭から被って逃げていたおじいさんが訓練通りの「伏せ」をしましたが、それっきりおきあがりませんでした。彼は直撃を受けたらしいのです。
 指示され教育された防火訓練を、忠実に守り実行した市民の哀しい姿がそこにあったのです。
 私はやりきれない気持ちでいっぱいでした。
 爆弾の落ちる合間を見ながら、ともかく人の逃げる方向の浦町駅を目指しました。逃げるのではなく追われているのです。洪水が流れるように人々は渦になってB29に追いたてられ、袋に追い込まれていきました。
 背後から幼い姉弟がついてきました。きっと親に逸れたのでしょう。見るとその子の防空頭巾は青白い炎で燃えていました。私はバケツをしっかり持っていましたので、防火用水から水を汲んで消してやりました。水をかけただけでは火を、軍手の手でこすって消しました。
 また爆弾が降ってきました。
 私はその幼い姉弟と一緒に用水路に入り、胸まで浸かりながら、コンクリートの橋の下に身を潜めました。
 やがて浦町駅まで来ると兵隊さんがいました。鉄道員もいました。何よりも力強く感じたのは、蒸気を吐いて今にも出発しそうな機関車がいたことです。今考えると単純なことであるけれど、いざとなったらそれに乗って逃げ出せると思いました。
 人々はみんなB29に追われて、駅裏の田圃へ逃げていきました。
 いつしか幼い姉弟を見失ってしまいました。
 爆撃はなおも執拗に続き、駅を通り越して田圃の方へと攻撃していきました。
「もう逃げるのはよそう」
 危険ではありましたが、どこまで逃げても同じだと思い、私はホームの荷物の間に身を寄せました。
 駅では、飛火で燃えかける火を、駅員が縄を巻いた竹竿で手際よく消していました。(ここでは訓練が生きていた)
 逃げるのを止めてから、周りがよく見えました。
 駅前の官舎は燃えていましたが、凄まじい燃え方をしているのは製罐工場の並びにある東洋ビスケット工場でした。
 火は火を呼び、やがてそれが渦になり、竜巻になって火の粉を散らしながら、何十メートルかの火柱になって立ち昇っていくのです。周りのものを巻き込んで・・・・・・。
 目を転じて松原町の方を見ると、和田寛の大きな建物が、工場が盛んに燃えていました。道路に面した家々が、一面の田圃の中で火の手をあげて燃えているのを見ると、火竜が身を捩って火を吹き出している様と同じでした。芥川竜之介の「蜘蛛の糸」の地獄もこうだったに違いありません。
 B29の攻撃はようやく終わりました。
 私は水を被って濡れたシャツやズボンをいつまでも着ているわけにはいかないことに気がつきました。勿論、着替えなどはありません。
 駅前の官舎の燃え残りの熾火で、腕を引っ張ったり、股を開いたりして乾かしました。
 その頃になって漸く東の空が白み始め、田圃の方へ逃げた人達が火の周りに集まってきました。どんなにひどい空襲であったかを口々に話しながら・・・・・・。
 直撃を受けて頭が吹っ飛んだ死体だの、死んだ赤ん坊をおぶったまま気がおかしくなった母親だの、話を聞いて慄然としました。
 こうして空襲の夜は終わったのでした。

(二)
 青森大空襲の一夜はあけました。
 私の母校であり、勤務校でもある橋本小学校がどうなったか気掛かりで、戻ってみることにしました。同僚達と逸れてしまった今、みんなどうしているか考える余地もなくバケツを提げて橋本小学校を目指しました。
 駅前は焼け焦げた建物が崩れ、累々とその残骸をさらしていました。視界を遮る建物の一つもなくなり、海の方まで見とおしが出来ました。青森市は焼け崩れた建物の墓場と化してしまいました。
 橋本小学校はちょうど臨終を迎えようとしていました。国旗掲揚台は一本の火柱となって燃え、正面校舎は骨組みの柱が真っ赤な炎となって、今まさに崩れようとしていました。
「遅くまで生き残ったんだな」
 橋の上からは、見とおしのよくなった焼け野原を見渡すことが出来ました。と、焼け残っている家があるのです。
「どのあたりだろう」私は、ドンドン急ぎました。栄町を過ぎ、松森通り(花園二丁目)へ一気に走りました。緑色のトタン屋根が見えました。まさに我が家の屋根に違いありません。息をはずませて走りました。が、はたと立ち止まり呆然としました。緑のトタン屋根は我が家のいも畑を隔てた向い側の家だったのです。結局、我が家のいも畑が防火の役目をし、延焼をくいとめたのでした。(その後、トタン小屋の家と無傷の家とが向き合った生活が続いたのです)
 男子師範学校も、天理教の建物も焼け、浪打小学校はクリーム色三階建ての校舎の威容を誇るが如く残っていました。
 父も母もみんな無事でした。家族の安否をたずねて、弟は走りまわっていました。
 全員無事であることを聞き、土中に埋めてあった酒を取りだし、大豆の交じった御飯で無事を喜び合いました。

 しかし、何と失うものの大きかった戦だったでしょう。
 小学校からの友達横山桂子さんは防空壕の中で焼け死にました。恩師の成田サダ先生も同じ壕で死にました。そこの町内の人達と一緒に・・・・・・。
 幼な友達の藤田とよチャンは、空襲後の爆撃で死にました。
 空襲の夜明けと同時に、あの青空に美しい八甲田山を見たとき「生きている」実感をしみじみと感じました。
 空襲の回想と共に亡くなった方々の冥福を祈って証言を終わります。

次代への証言第七集