私のうちは東奥日報社北向かい、長谷川商店隣で和裁を業としていた昭和20(1945)年7月28日午後10時10分、私はこの時間を忘れることはできません。毎日のように戦時の標準服や非常用の袋をつくっていたが、床についてまもなく鳴った空襲警報のサイレンに、停電した暗やみの中で身支度、 妻は3才の末っ子をせおい、防空頭巾に地下足袋、女学校にいっている娘と4人、角弘金物店の鉄筋ビルの中に退避した。 付近の人たちが18人ほど息をひそめている目の前を、寺町、新町の人々が布団などをかぶって青森駅の方に逃げてゆく。 15分ぐらいのうちに角弘の中の人たちも次第に減っていく。 私は意を決して妻子に郊外への脱出を命じた。向かい側に落ちた焼夷弾の火のかたまりを火叩きで消したりしていたが、避難する人の流れをみて、こんなことをしても無駄とあきらめて角弘に戻った。角弘の当直だった工藤さんが店の戸を降ろして避難するというので、まっ暗やみの中に1人残る気にもなれないので外にでた。 防空頭巾をせおった工藤さんとそこで別れたが、工藤さんは翌日夜店通りのマルキ呉服店の前で焼死体となって発見された。

空は火災のために明るいが、町の中は煙がたちこめて、手もとも見えない。布団を2組せおった若者が県庁の方に走って行く。おそらく助からなかっただろう。新町郵便局が火を吹き出した。私は県庁に出入りするたびに見ていた構内の防空壕に退避をすることにした。しかし暗やみの中で足の不自由な私の頼りとする杖がない。 県庁の庭まで這って行くことにした。ふだん枕元に防空頭巾を備えておくのだが、その時の服装は長年離さぬ着物姿に、いつもつけているもも引きは、はくひまがなく、すねは丸出し、頭には鳥打ち帽子、足は足袋に片方が高い特別の下駄、長谷川の店の台所にあった一反風呂敷を水で濡らしたのをかぶっていた。 全然人影のない東奥日報社の前通りを少しずつ這って進んだ。 新聞社や警察の前はひっそりとして、 全然人の出入りする気配もしない。両側の家々が燃えだしており、風にあおられた火の玉が道路を転がってくる。アスファルトが溶けてからだを運ぶのも容易でない。幸い軍手をはめていたが、手をつくたびにべったりくっついて、手前の方に引っぱると軍手が抜けるので、前へ前へと手を押しだし、むき出しの股を使って前進した。ばたばたと高い音がするので、首をねじ曲げて見ると熱風にあおられたトタンの音である。東奥日報社前面のカワラ屋根越しにまっかに焼けたトタンが風を切って飛び落ちてくる。 図書館前の川に入ろうと思ったが、橋が燃えたり、建て物が崩れ落ちると危いと判断して、なおも必死で自分を励まして這って進んだ。

東奥日報社、警察署も窓から火を吹き出した。頭上を飛んでいるはずのB29の音も夢中なので耳に入らなかった。30分くらいでやっと県庁の構内に辿りつき、防空壕までいってみると鉄の扉は降ろされ、さわってみると焼けつくような熱さである。中に入っている人は助からんだろうと壕に入るのをあきらめた。 特高の関係者が議事堂だけは大丈夫だといっていた話をふと思いだし、見ると灯りが見える。 立ちこめている煙の中を追って議事堂の階段の下に辿りついた。大きな荷物をせおった5、60才の婦人がきて2人になった。 二階の階段の方でラジオらしい音がするので5、6段の階段を登って中に入ろうとしたが、煙がひどくてとても立っていられない。階段の下にうずくまり、50センチほどの段の間に頭を入れた。向かい側の官舎が燃え上がり、その火が巻き起こしたつむじ風が議事堂の玄関のガラス戸にぶっつかり、大きな音を立てて戸の開く音がする。そのうちに屋上の飾りが落ちてきてガラス戸にぶっつかりガラスが四散した。暗やみの中でへたに動き回るとけがをするので、2人ともじっとしていた。

しかし、煙がのどにからむので、そばにあったバケツの泥水を一口飲んだ。3時半過ぎやっと夜があけ初めた。その婦人は背中の荷物をとうとう降ろさずに背負ったままであった。議事堂から1人の警官らしい人が出てきて声をかけてくれたので、 「逃げ場所がなくてここで世話になっています」というと「まあ二階に上がれ」ということになった。2人は二階に上がり、そこで乾パンと目薬をもらった。窓からわが家の方を見ると、角弘の鉄筋ビルが残っているばかりである。棒をついて力にして倒れた電柱や電線をまたいで行ってみると、わが家は最後に火がついたらしく、柱がまだ燃えている。ミシンなどはそのままの姿で焼け崩れていた。

角弘の倉庫をのぞいて見ると、釘だるは、タガを残してすっかり燃えて中の釘が全部焼けている。中に焼夷弾のかけらもないところからみると、周囲の熱で蒸し焼きになったらしい。もう焼け跡を見に人々がもどってくる。 青森駅で休もうと、今の協働社の所にゆくと、駅に避難していた着物姿の新町通りのカフェーやバーの女給たちが戻ってくるのに出会った。「被災者は大野国民学校に集まれ」という知らせに、あちこちの水槽に頭を入れて死んでいる夜店通りの犠牲者を見ながら、途中で行き会った三上眼科の夫人と大野へと歩いた。

避難させていた当家の者たちは、建て物疎開で広くなった県庁の西側を通り、国道を越えようとしたら、危険だと阻止されたので引き返し、議事堂西境の幅二尺たらずのセキにどうせ死ぬなら親子いっしょにと3人固まって、子供を下にして身を伏せていた。やがてこのセキに20人ほどの人が入ったので、少ししか流れていなかった水はせき止められ、入っていた人たちのからだを隠すようになった。やがて夜明けになり人々は湯のように熱くなったセキから這い上がり、泥だらけのからだを電柱の燃え残ったオキで乾かして、各自避難先に向かったのである。 家の者は残してきた私のことが気がかりなので、議事堂の前まで行ってみると、トタンをかぶせた焼死体があり、はだしの足が2本でていたので、足袋をはいてでた私だと思い顔を見る勇気もなく、死んだものと思ってしまった。そして路上に散乱している焼死者をよけながら大野村に行き、 親子3人大野国民学校の講堂で休んでいたのである。そこにようやく私がたどりついたのだから、しばらくは顔を見合わせるばかり、ややあってから泣いて抱きあったのでした。大分待って小さいオニギリを1個ずつ渡され、これでは青森にいてもだめだというので、青森駅に行き、無料で、窓からおしてもらって汽車に乗り込み、子供たちのいる黒石在の馬場尻へ向かったのである。