昭和20年7月27日、空襲前日の夜、午後8時過ぎだったであろうか、B29によって10所の都市へ、6万枚のチラシがばらまかれたという。直接そのチラシを見たわけではないが、当時の話題では、「日本国民に告ぐ」から始まり、「敵はあなたがたではない、だが爆弾には眼がありません。裏面に書かれた都市の中から、数ヶ所を選んで爆撃するから、一刻も早く逃げなさい」、およそこのような文意で、終りに「人道主義のアメリカ」とあったという。風 がその裏面には、郡山・平・青森・函館など、いくつかの都市名が書かれていた。しかし、私を始め市民の誰もが、まさかそんなことがあるものかと疑ったものである、今考えれば、アメリカの人命を尊重する、人道的な良心があったのだと思う。

当時、私は師範学校本科二年、学徒動員で、 神奈川県横浜市追浜兵機製作所へ行ったが、体調をくずし、一時帰省していたときのことである。家は浦町駅前にある国鉄官舎で、兄は国鉄職員で勤務のため不在であり、義姉は七戸町の実家へ帰宅中であった。当夜は私一人で夕食を済まし、チラシのことが気になったが、 まさかと考え、部屋にごろ寝していた。ところが、突然空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り、慌てて電灯の明かりが漏れないように風呂敷で覆い、防空頭巾を被って、浦町小学校の側を通り、市立高等女学校及び、県立盲唖学校周辺の空地が安全だと考え駆足で避難した。

私にとって盲唖学校は、元教授嘱託として勤めていたところでもあり、防空壕のあるところも知っていたので、迷うこともなく、目の前にある防空壕へ飛び込んだ。 入ったものの、入口からB29の重く鈍い爆音が次第に大きくなってくる。 果たしてこのまま、ここに居てよいかどうか、携帯ラジオを持たない私には、外の様子を見ながら判断し、行動するほかなかった。

時刻は午後9時前後だったと思うが、1人だけ入っている防空壕の中は淋しく、時々入口から顔を出しているうちに、真暗だった西の空が急にパッと明るくなった。 照明弾の投下である。それが二回、三回と続き、市内全体が真昼のように明るくなったと思う間もなく、焼夷弾を次々に投下し始めた。投下地点から、四方八方に炎が立ち上がり、東から西からと、こちらへ迫ってくる。爆音と火の手を見ていたが、恐ろしくなり、再び防空壕の中へ飛び込んだ。

入ってホッとしていたところへ、三・四人の子女が避難のため、ガヤガヤしながら入ってきた。中は暗く私の居ることに気付かないうちは何も言わなかったが、男の私を見るなり「ここはうちの防空壕だから出てください」と言われた。出ることを躊躇したが、仕方がなく出た。 出て市内の方を見ると、一面地獄の火の海だ。 これでは山の手方面が安全ではないかと考え、国鉄操車場を越えて、高田方面へ避難することにし、逃げを考えた。

相変わらずB29のウォンウォンという体に響くような音が、頭上から切れ間なく聞こえてくる。これから操車場の方へ行こうとしたその瞬間に、ドシンと大きな物体が落下した。そこは防空壕から数メートルより離れていない。これは大変だ、ぼやぼやすれば直撃をうけると考え、国鉄操車場の方へ駆足で逃げた。既に操車場にも焼夷弾が何発か投下され、燃えた貨車もいくらかあったが、安全な所を確認しながら、貨車の下を這うようにして、事故もなく潜り抜けた。

操車場を抜けると、水田また水田と、高田部落まで続いていたようだった。この時期の水田は出穂直前で、用水路の大小を問わず、水は溢れるほどで、水深もあったと思う。防空頭巾を被って用水路に入っているのが、一番安全だったというのは、黄燐焼夷弾は炸裂すると、衣類や板塀に付着し、燃えるといわれていたからである。私が見た限り、用水路に入っている人のほとんどは、子女ばかりだったと思う。お互いに顔だけ出し、励まし合っていた。子どもで泣いているものはいなかった。私は、迷路のような田の畔を、左右前後往来しながら、目的地である高田部落に着いた。時刻はたぶん午後11時前後だったと思う。着いて近くにある農家の物置小屋の軒下に、そばにあったムシロを敷いて腰をどっかり下した。青森市内に目を向けると、それはそれは一面火の海だった。これ以上自分にはどうしようもなく、夜明けを待っているうちに眠ってしまった。

いつの間にか目覚め、市内の方を見たら、黒煙、白煙がもうもうと立ち込めていた。県庁は、市役所は、我が校は、その他主なる建物はどうなったろうか。 注意して見ようとしたが何も見えない。夢のような一夜が過ぎ、果して我が家はどうなったのかと、不安に思いながら、逃げたあぜ道を戻り、被害を受けた幾つかの貨車を横目に、再度操車場を通って、初めに入った防空壕の所へ寄ってみた。ところが、白煙を上げ、悪臭を漂わせていた。中はよく見えなかった。ただ中に入った子女はどうしたのだろうと、少しは気になったが、人らしきものが見えないので、避難して無事だったのだろうと思い、自宅のある浦町駅の方向へ急いだ。 来て見てびっくり。すっかり諦めていたはずの鉄道官舎が、自宅も含め、難を逃れて残っていた。思わず「よかった、よかった」と声をあげて喜んだ。

ところで、あの激しい空襲の中から、難を逃れ、自宅まで残ったのはよいが、空襲から二、三日後に、「出て下さい」といわれて、防空壕に入ってきた人達全員が、直撃弾を受けて亡くなったと聞いた。ひと事ではなく、ほんとうにびっくりし、まさかと自分の耳を疑ったほどである。 後でわかったことであるが、亡なった人達は、当時の青森市役所職員の家族だったという。 気の毒に思うと同時に、人の運命というのは、ちょっとしたことで生死を分けてしまう恐ろしさを体験した。 その他、宅地内にある防空壕で、犠牲になった人々も少なくなかったという。

空襲の翌日、7月29日のラジオニュースで、市内の焼失した主なる建物等を放送していたが、その中に我が校も含まれており、それを聞いて、居ても立ってもおられず、早速学校へ行った。ニュースの通り、校舎は見る影もなく全焼していた。 特に寄宿舎は、白煙と黒煙を放って燃えていたようである。農場も一回りしたが 野菜も茶褐色または黒くこげていた。一通り見回って帰ろうとした時、目にとまったのは、からになった焼夷弾の筒であった。真鍮製で、口径10センチ、長さ40センチ、重さ2、3キロくらいで、弾頭は重く、落下の際地面に刺って噴出するようになっていた。それが珍しいこともあって持ち帰り、物置きに置いたら、敵の兵器を持っていれば罰せられるというので、実家へ持って行き、縁の下へ隠した記憶がある。それが今どうなったのかわからない。たぶん改築の際に埋められたのではないかと思う。今あれば花器に利用できたかもしれない。

灰燼となってしまった学校を後にし、ムンムンくすぶる国道へ出て、堤橋へさしかかったら、堤川下流(川口)で、多くの人が船に乗り降りしていた。近くに寄ってみたところ、フトンや家具、木材等水面いっぱいに浮んでいた。その中に何10体かの死体が混じっている。まるで地獄絵でも見ているようで、心が痛み今生きている私が不思議なぐらいだった。話によれば市内の道路という道路は火炎に包まれ、川へ飛び込むより仕方がなかったという。

しだいに川の両岸に人影も多くなってきたが、私は更に足をのばし、葭町や大町の方へ行くことにした。道路の処々に老若男女の死骸がごろごろしている。中でも、母親であろうか、幼児をお腹の下へ抱え込み、母親の背中が黒こげになり、共に息絶えている姿や、消防士が消火の最中に猛火に襲われたのだろうか、制服を着けたまま消防車の側に、何人か倒れているなど、目を覆うばかりである。これ以上市内を歩く勇気を失い、柳町通りを通って自宅へ戻ることにしたが、柳町通りを流れている川にも何体かの死体が見られ、空襲の恐ろしさを一層強く感じたものである。

自宅へ戻ったら、兄が勤めから帰宅していた。私を見るなり「お前が市内の方にでも行って、死んだのではないかと心配していた。どこへ行っていたんだ」といわれたが、何よりも2人の無事を喜びあった。 落ち着いてから、昨晩から今までの行動、すなわち、空襲警報のサイレンが鳴って直ぐに高田方面へ避難したこ、とや、防空壕でのできごと、学校の全焼した様子、それに堤川、市内の被害状況などを話した。話を聞いた兄は、そんなにひどいのかとびっくりした様子だった。

運がよく空襲から逃れた官舎で、尽きない空襲の話をしながら、台所にあったもので昼食に代えた。中心街で残った建物は、鉄筋コンクリートによる建物や土蔵、周囲に広い空き地のある建物程度だったような気がする。大町周辺で残った青森市公会堂は、市役所の仮庁舎に利用されたが、米軍の進駐後没収され、再度連華寺の縁の下へ庁舎を移転し、ここで当分の間、市の行政が行われたように覚えている。

終戦は8月15日。天皇陛下の玉音放送によって、戦争は遂に終わった。あれからどれくらい経ってからであろうか、住んで居た国鉄官舎が原因不明の火災にあい、家屋はもちろん家具一切を焼失してしまった。せっかくの大空襲から逃れたのに、残念で仕方がなかった。兄は旭町の親籍へ移ったが、私は一時実家へ戻ることにした。校舎を失った師範学校は、時敏小学校の教室の一部を借りての授業だった。実家へ戻った私は、上北町からの通学を余儀なくされ、通学時間が3時間以上もかかり、時には列車の遅れで昼頃に着いたこともあった。何のために学校へ通ったのか、今考えると随分無茶なことをしていたものだと思う。

時敏小学校での授業も長続きせず、 弘前公園内にあ元陸軍兵器庫へ移転したが、倉庫を改造した粗末な校舎である。でも、桜の名勝弘前公園での生活は、花見にいくたび、当時のことが、懐かしく思い出される。あれから60年、生涯忘れることのできない戦時中の体験である。 80路を越えた今、平和のありがたさをしみじみと感じているこの頃である。(青森空襲60周年事業「次代への証言」青森空襲を記録する会 平成17年7月より)