6月始め、学校から学童疎開通知書が届けられました。その頃、私の家では父の実家のある西郡の川除村に家財の疎開を始めており、私は学校を休み、リヤカーに積んだ荷物の上に乗って何回もついて行ったものです。 父は、私の方がよけい荷物になったといいますが 、登り坂では一生懸命に車の後押しをしたものです。
ひととおり荷物の疎開が終わったあと、私は学級で4人目の疎開児童として、友だちや県立高女生の姉と別れをつげ、疎開証明書で買った切符で父と2人汽車に乗り、青森をはなれました。父の実家の川除村の小曲部落は、五所川原町(現在は市)から30分程の岩木川を越えたところにあります。私はその日から父の両親と暮らすことになったのです。
学校に通うことになりましたが、すぐ向かいの五所川原町の学校には入れてもらえず、 川除本村の学校に行くことになりました。朝早く、その家の1年の女の子と家を出て、片方は一面の水田が続く岩木川の堤防の上の道を1時間以上も歩くのです。学校が終わっても1年生は先に帰っているので、私はたった1人で、広い岩木川の流れを見ながら泣きたいようなさみしい気持ちで一里半の道を帰るのでした。 私の家は、古川国民学校のすぐそばにありましたので、なかにも遠く感じました。6年生は1学級で男女がいっしょでした。担任は女の先生で、生徒たちは青森の町から来た疎開の子供だというので、珍しがって私にいろいろなことを聞きます。いなかの学校なので畑や水田の草取りをする日が続きます。
私の古川の学校でも校庭や浪舘、油川などで畑を作り、また信用町に水田をつくっていたので、農作業に少しはなれていたつもりですが、川除の子供は本職同様なのでとてもかないません。畑や田の草取りをやっても、私がまだ四分の一くらいしか取っていないのに、村の子供たちはもう終わってしまって、みんなで私を見ています。男の先生は「町の子供はこれだからだめだ」と言いましたが、受持ちの先生は「町の子といなかの子と同じにやれるわけはないんだから」と私をかばってくれます。昼休み、弁当を食べるとき、1人でいると友だちが誘いに来近所の家を借りて食べました。
学校では生徒に、あしたは豆を持って来いとか、野菜を持って来いといいます。 それが1年から6年まで全部のときは、私のいる家でも1年生の子がいうと、ばさまは私の分だと持たせてくれます。しかし、6年生だけに持って来いといわれたときは、家に帰っても迷惑でおばにいうことができません。持って行かなくても先生は何ともいいませんでしたが、ひけ目を感じて学校へは4日目から行けなくなりました。田の草取りがいそがしい時なので、私はにわかアダコ(子守り) に頼まれ、赤ん坊を背負って田に乳を飲ませに連れて行ったりしました。
真夏のある日、五所川原の方からも青森の空が明るくて、空襲されているのがよく見えました。 夜空に焼夷弾の飛び散って美しく落ちて行くのが、いまでも目に浮かびます。その少し前に小曲に来ていた私の母は、翌朝、父や姉の安否をたしかめに自転車で青森へ帰り、私はまた一人ぼっちになりました。遠いいなかで、青森の町はすっかり焼けてあとかたもない、何100人もの人が死んだということを聞くたびに、6年生だった私も、家のことが心配で早く青森に帰りたいと毎日のように泣きました。何日待っても家からは一枚のハガキも届きません。 一週間くらいたってから、毎日泣いている私をみかねた親せきの人が2人で、青森の空襲跡を見物がてら、すぐに連れて帰ってもよいから親に一度会わせてやろうと、私を連れて汽車に乗りました。 新城の駅で汽車は動きません。 暑いなかを青森まで歩かされました。
古川の跨線橋の上から町を見ると、目の前にがい骨のような私の学校が見えます。私の両親たちは、学校の校庭にある、つぶれずにいた防空壕で暮らしていました。やっとのことで家族みんなの顔をみることのできた私は「どんなにつらいことがあってもみんなといっしょにいた
い」とがんばったので、いなかに連れ戻されずにすみました。その後、すぐにまた空襲があったので、私たちは大野村の半鐘の下まで逃げました。そして、秋になり焼けた校舎で勉強が始まりましたが、窓もないので寒くてたいへんでした。 長島国民学校で冬を越し、3月そこで卒業式をあげたのです。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)