平成17年は、あの終戦の年からちょうど60年になる。忘れても忘れられないのが、昭和20年8月15日の終戦の日であり、昭和20年7月28日の青森空襲の日である。一年に一度は、図書館に足を運び体験記を読み、気を新たにしている。昭和20年は、80年来の大雪になった年でもある雪は、一階の軒まで積もり、玄関から、雪の段階を作道路に出たものである。昭和20年7月14日と15日のグラマンによる青森空襲は、青函連絡船が集中的に攻撃を受け、全滅した。その後、北海道に渡る人達はどうしたのだろうか。

昭和20年7月28日、夜9時30分頃より、青森市内は、B29による焼夷弾爆撃による空襲を受ける。終わってみれば、死者730名あまり、焼失家屋約11300棟あまり、見渡す限りの焼け野原になってしまった。この青森空襲の時、私と姉は、青森にはいなかった。学童疎開で、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町中村の父の実家にいた。この時、私は、橋本国民学校2年生、姉は同じ5年生、体験記に、学校から学童疎開するように通知書が送られてきたとあるから、自分も姉もそうだったのかもしれない。この時、学童疎開は43パーセント近くあったという。私の家族は、父、母、兄、姉、妹、の6人家族、父は、工兵として招集、盛岡に入隊、終戦時は八王子にいた。兄は青森工業電気科の生徒、学徒動員で大湊へ、妹は未就学、母と共に青森に残った。

ある日の夜遅く、私と姉は叔父に起こされた。それが昭和20年7月28日の夜、『青森が燃えている…空が真っ赤だ・・・』と言う。自分は起きなかったが、姉は起きて外に出て行った。叔父に起こされる前、飛行機の爆音を聞いたような気がしていた。青森空襲の前日、米軍は空襲を予告するビラをまいた。このビラは郊外に多く落ちたようである。また、ビラを拾ったら届けることが義務づけられていた。空襲予告ビラによって、多数の疎開者が出、市民不在の現象がおきて、県知事は、7月28日まで戻ってこない世帯には、町会台帳より削除し、配給の権利を削除するとの通達を出した。その夜に青森は空襲にあった。

青森空襲の記録には、昭和20年事務報告、建物疎開に関する件、5月1日から5月15日とある。
一、青森駅海岸線から、国道に至る線
二、国道より浪館通り、久須志神社に至る線
三、県庁西横丁海岸線より、旧線路通りに至る線
四、柳町防火線通り海岸より、青森操車場に至る線
五、浦町税務署通り海岸より、鉄道線路に至る線
六、浦町駅通り海岸より。浦町駅に至る線
とある。これは防火帯を作るために、家を強制的に取り壊す計画である。浦町駅通りに関しては、橋本国民学校に通学の時見ることができた。柳町通りは、私の家内が、今の、千葉室内のあたりに住んでいて、強制疎開にあい、鶴田へ引っ越しをしている。

アメリカが原子爆弾の実験に成功したのは、昭和20年7月16日、昭和20年8月6日、8時15分、広島に新型爆弾、原子爆弾が投下される。また8月9日の11時10分、広島に続き、長崎にも原子爆弾が投下される。この原子爆弾によって、一瞬にして数十万人の命が奪われた。8月8日、ソ連対日戦線布告、8月9日参戦、昭和20年7月26日、米国、英国、中国の3国名で、対日ポツダム宣言を発表、鈴木首相これを黙殺、昭和20年8月10日、ポツダム宣言の受諾申し入れ、8月14日、ポツダム宣言受諾決定。日本は、無条件降伏をした。 受諾がもう少し早ければ、原爆投下はなかった。 昭和20年8月15日の玉音放送も自分にはわからなかった。その日の晩飯時、叔父が『日本は無条件降伏、戦争に負けた・・・』と言った。『青森に帰れない・』 姉が言った。次の日、おじは忙しかった。あっち、こっちと動き回っていた。そして『青森に帰すにはもう少し時間がかかる・・・』と言った。

それから1週間くらい後に、青森に来た。学校は夏休みで転校手続きは取ることができなかった。 青森駅は残っていた。もしかしたら、まだ残っている建物があるのではないかと思った。しかし、駅の外に出てみると、一面の焼け野原であった。堤の火の見やぐらが見えていた。目をそらすと、和田寛が見えた。姉に言うと、姉も見た。 提橋まで歩いた。しかし、どこをどうして来たかわからない。 提橋の角の映画館は焼けていたが、石岡の酒屋さん、柳谷の米屋さんは残っていた。このぶんだと私の家は焼けていないかもしれないと思った。

私の家は松原、和田寛に囲まれた松原の通りにある。しかし、和田寛は燃えていた。残ったのは奥の倉庫であった。私の家は焼けていた。 和田寛の向かいに、丸本田中さんの別荘があり、庭師の祖父が、祖母とこの別荘の管理人として住みこんでいた。その別荘も焼けてなくなっていた。しかし、屋敷の隅にバラックがあった。そのバラックに、祖父、祖母がいた。びっく
りしていた。母と妹の居所はすぐにわかった。焼けなかった平井さんの家にお世話になっていた。母も驚いていた。転校届が届いたのは、夏休みが終わって、かなりたった頃で、姉と共に、焼けなかった筒井小学校へ入学した。

父がいつごろ帰って来たのか思い出せない。9月かもしれない。父が帰って来て、祖父のバラックにバラックをつけたして、祖父、祖母と一緒に住むようになった。松原の町内は、東北本線の踏切から、和田寛を過ぎたガンド橋まで、ここから南は筒井村奥野になる。松原は街のはずれにあるため、全焼はしていない、堤川があり、田んぼもあって、逃げ場があったから、死者は出なかったようだ。松原で焼けたのは、和田寛、丸本田中の別荘、青森木工指導所、慈晃会、民家が数軒だと思う。 奥野には、憲兵隊、将校官舎、下土官官舎があったが、西側にあった下土官官舎のみが焼けた。

将校官舎は今の藤聖母園のところである。筒井にあった青森歩兵第五連隊の兵舎は全て残った。今の青森県立青森高等学校のあるところが、青森歩兵第五連隊の跡である。五連隊の兵舎は終戦後火事で一部焼けた。その後、残った建物は解体されたが、その一部が青森自衛隊の中に保存されている。松原通りは、五連隊の兵隊が行き交う道である。 兵隊の行き、帰りはよく分かる。ときには、旗を振って送ったり、迎えたりもする。遊んでいるとき、兵隊さんからよくバナナを貰った。当時はバナナは貴重品であった。

青森歩兵第五連隊の解体、兵士が故郷へ帰って行く姿を、この松原通りで見た。意外と人数が少ないと思った。時期は9月ではないかと思う。その姿は足取りが軽く、身が弾んでいるように思えた。軍靴を鳴らし、歩調をとり、軽やかなリズムが心に残った。着のみ着のままの兵士の隊列、少しばかりの荷物を背負た兵士の隊列。背中いっぱいに荷物を背負った兵士の隊列。父が、いつどのようにして帰って来たかはわからない。青森歩兵第五連隊の本体は、満州に駐留していたが、昭和19年9月、フィリッピンへ転用、レティ島カンキポット山にあって、ほとんど全滅、本県出身で生き残ったのは、7名たらずどのことである。

昭和20年9月25日、アメリカ第81歩兵師団ワイルドキャット(山猫部隊)が安方、合浦公園、八重田海岸一帯に上陸用船艇に便乗して上陸した。その一部が青森歩兵第5連隊に入るということで、学校では数日前より、全生徒に対し、注意を呼びかけ、その指導を徹底させていた。 だが駐留軍が通るという正午、松原通りは人通りが絶え、犬一匹、猫一匹、いなくなってしまった。正午の松原通りは、深夜の真夜中のように、静まりかえっていた。

私はその時、祖父、祖母のバラックにいた。祖母に『アメリカ兵が来るよ・・・』と言うと、『外に出るな・・』と言った。 屋根裏に上がった。隙間穴はすぐみつかった。通りはより以上に静かになった。(いよいよだ・・・)そう思った時、来た。砂か、砂利か、軍靴とこすり合う音がしている。 銃に銃剣を付けて、道路の両側に、一人一人の間隔が10メートルくらい、片側に10人くらい、一歩、一歩、また一歩と進んで行った。 「応すぐそれからしばらくして、本隊らしきものが来た。靴を鳴らし、道の真ん中を隊列を組んで、歩調は日本兵に比べるとよくなかった。アメリカ兵が通って、しばらくしてから通りに人が出て来た。何処にこれだけの人が居たのかと思うくらいに。

次の日、通りがざわめいていた。 出てみると、近所の人達が、人形を持ったり、ハンカチを持ったり、扇子を持ったりして、アメリカ兵が通るたびに歓声を挙げて手を振っている。すると、車は止まり、品物を見ながら、タバコ、チョコレート、チュウインガム等を交換していく。自分も仲間に入れてもらった。(青森空襲60周年事業「次代への証言」青森空襲を記録する会 平成17年7月より)