石村サキの証言より

 昭和二十年七月二八日は忘れることの出来ない恐ろしい空襲の日ですが、私の最初の印象は、にくらしい程きれいな、焼夷弾の明かりでした。
 空からシャーという音がして、幾つにも分かれた焼夷弾が花火のように降ってきます。
 あれ程きれいなのは見たことがありませんでした。
 私の家は中央古川の最近まで奈良病院のあった隣の、少し引っ込んだところにあったのですが、余りにきれいなのに、主人と二人縁側に立ちながら見とれていました。
 外ではがやがやと音がしていましたが、そのうち静かになり、玄関の戸をあけてみましたら人ひとり居ません。
 夫婦と思われる人がリヤカーに山程荷物を積んで逃げていきました。
 その時初めてこれは戦争なんだと感じたのです。
 私はびっくりしてしまい、「これは逃げ遅れてしまった」と、その場所にペタペタと座ってしまいました。
 主人も驚いて、こうしては居られない、さあ早く逃げようと言って二人で外に出ました。
 その時は、町内はもう火の海でした。
 中央古川の通りに出ると、風にあおられた火の波が、ゴーという音と共にあっちにいったかと思うと又こっちに押し寄せてくる様子で、まるで地獄絵の中にでもいるような感じでした。その火を避けて逃げては見たものの、あまりの恐ろしさに私は進むことが出来ませんでした。

「私はもうだめだ。どうせ死ぬなら家で死ぬ」と言って走って家に帰ってしまいました。
 主人は私を追ってきて「家に居れば死んでしまうのだから逃げられるだけ逃げてみよう」といって、私をつかまえて火の海をまたいで進みました。
 道は火の海だし、人家の屋根からは火焔がごうごうと吹き出していました。
 主人は角の家にあった防火用水を、私の頭からかけてくれて、又手を引っ張って歩きました。 
 家を出るとき主人は自転車にラジオをつけてひっぱり、私は夏のよそ行きの着物三枚を背負っていましたが、細越に着いた時にはどこにもありませんでした。多分、火の中で捨てたのではないかと思いますがよくわかりません。
 それでも国道をこすと火の海は少なくなりました。  
 私達は細越村の田んぼにたどり着いたのですが、途中二回焼夷弾が目の前に落ちました。 
 不発弾だったらしく燃えませんでした。
 怖い怖いと騒ぎながら細越の田んぼにたどり着いたときは、草の上にへたへたと座ってしまいました。
 ばらくして、ようやく我にかえり、青森の方を見ました。
 一面火の中で、燃えて燃えて、実に勢いよく燃えつづけていました。
 他にも避難した人もたくさん居たようですが、だれひとり、ひとことの言葉もなく、ただ黙って燃える青森をにらんでいました。
 どのくらい時間がたったでしょうか。
「大野の学校に避難しろ」と大声で叫んでいる人の声でやっと我にかえり、大野に向かって歩き出しました。
 大勢の人が、ぞろぞろと全く無言のまま、まるで夢遊病者のようにふらふら歩いて行くのです。まだ暗いときでした。
 ようやく大野の小学校にたどり着くと、おにぎり一個づつを貰いましたが、それを食べても、あり難いとも、おいしいとも感じられませんでした。死んで居るのか生きているのか解らないような情態でした。
 やがて恐ろしかった一夜があけると、主人が青森へ行って見るというので私も一緒に着いていきました。
 市内に入ると、いたるところに死体がごろごろ転がっているのです。それを見ても可愛そうだとか、気の毒だとも思いません。自分自身が本当に生きているのか、ただふらふらと歩いているだけです。
 どこをどう通ってきたのかはっきりしませんが、旭町通りだったと思います。
 市内は一面焼け野原で火がまだ赤々とあっちにもこっちにも燃えていたり、けむったりしていました。
 ようやく古川の家にたどり着きました。
 一面真白な灰、よくもこんなに焼けたものだと思いました。よくよく見回したら、夕べ仕込んで置いた御飯の鍋が、蓋のついたまま残っていました。蓋をあけると御飯が丁度食べごろになっていたのです。
 それを食べたかどうか記憶していませんが、まるで地獄で仏に逢ったような気がして、いくらか元気を取り戻しました。
 その時つくづくとこれが空襲なのだ、戦争なのだと痛感したものです。
 私たちは空襲が激しくなってから、庭に瀬戸物と米を埋めていましたのでそれを掘り出しました。
 その時、新しい大家さんだという人が来て、「ここは私の土地になったからこれからは貸さない」と言うのです。
 この土地は私達が長いことつきあっていた人のものでした。いつどうしてその人の手に渡ったのか知りませんが、空襲の翌日に来て「出てゆけ」にはびっくりしていしまいました。なんとか頼んでみたが「買ったんだから駄目だ」の一点張りでらちがあきません。
 その日も艦載機が絶えず飛んできておどかしています。
 私達は焼け野原にいつまでいても仕様がないので、信用町にいる先輩の家に行って見ることにしました。
 所がそこの家も焼け出されて、焼けトタンの上に座っています。とにかくそこで二晩夜空を眺めながら泊めてもらいました。それはウソのようにきれいな夜空でした。
 私の父が来たのはこの後のことで、これからどうしたらよいかとぼんやり考えているところへ「やっと解ったぢゃ」と言いながら訪ねてきたのです。
 多分、ほうぼう探したのだと思います。
「さあさあ、こうしていないで、ひとまず上磯に行こう。何をこうして苦労しているのだ」と言って、私を実家に連れてゆこうと言うわけです。
 主人も実家に一旦帰るようにすすめてくれましたが、私は浪岡に疎開させていた主人の母と娘を何とかしなければと思っていたので聞き入れませんでした。
 とうとう父は「気が向いたらいつでも来い」と言って、お金をくれて帰ってゆきました。
 その後、先輩のお世話で久須志神社の近くで、焼け残った家の二階を借りることが出来、どうにか落ち着きました。母と娘も疎開先から連れ戻すことが出来ました。
 今度は食糧難です。一番苦しい時が、この時から始まったような気がします。
何ひとつ金で買うことが出来ません。
 商店はないし、病気になっても医者がどこに居るのか解りません。 
 実家の父はいつでも来いと言ってくれるものの、まず私達の暮らしを立て直して行かねばなりません。
 配給で燕麦を渡され。煮てみましたが、とても食べられませんでした。
 私も人のまねをして米や野菜の買出しに出かけました。
 友達の案内で南部の方へ行ったのですが、お金では何一つ売ってもらえず、衣類と取りかえるのです。
 ようやく、よそ行きの着物三枚で、米二升と替えてもらいましたが、その米もワラクズが交じったひどいもので、「人を馬鹿にするもんだナァー」と思ったものです。
 買出しの列車も大変なもでした。混んで混んで、人が窓から出入りする有様で、私は窓からはとても乗れず、貨車によじ登り、石炭の上に座ったものです。あまりのつらさに死ぬんでないかと思ったものです。
 西郡の友達のところに衣類を疎開していたので、それを全部売って米にかえていただきました。四俵買うことが出来たそうです。友達のところに預かってもらったのですが、これ程の米を置くと、怖くて怖くて仕様がない。早く取りに来てくれと、再三の催促の手紙です。それで汽車に乗っていったのですが、背負っても一斗より運べず、その一回であとはどうでもよいと諦めました。四俵のうち、一斗より持ってくることが出来なかったのです。仕方なくその米を又売ってもらいました。ふんだりけったりとは正にこのことではないでしょうか。
 思い出すのもいやなことばかりですが、あの時亡くなった人達のことを思えば、こうして家族一同無事に今まで長生きしている事だけでも感謝しなければなりません。
 あの当時のことを思えば苦しくなります。
 ただただ、ため息がでるばかりなのです。

次代への証言第十集

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