昭和20(1945)年7月28日、その夜の就寝時刻が何時であったかは記憶にないが、その時刻少し前、しょぼしょぼと小雨が降ったのを忘れない。なぜその記憶が残っているのか。強いていえば、その小雨に「今晩は来ることはあるまい」という妙な安堵感があったこと、さらに焼失後、あの小雨は上空から敵機が降らした石油であったのではないかとのデマもあったからだ。

それほど、信じ切れないほど、見事な焼け野原に化したからだ。安堵感については事実、その前日夜半、敵機からばらまかれた宣伝ビラを私達は眼にしており、その不安とも交錯していた。今もそのビラのぜいたくな紙質(製図用ケント紙よりも立派に見えた)それに鮮明なまでに印刷されていた日本文字、それがどこで出きたのか不思議であり、やはり日本人の中にもスパイがいるのかといぶかしがるほど、私達は戦争の中身について無知だった。

今もその文章のところどころを覚えている。「日本国民に告ぐ」「人道主義のアメリカ」「敵はあなたがたでない」「だが爆弾には眼がありません」うまいことを言ったものだ。その気持ちは今も変わらない。そして「近日中には裏面に書かれた都市の中から、数ヵ所を選んで爆撃するから一刻も早く逃げて下さい」凡そそのような文意で、その裏面にB29の雄姿?と、郡山、平、青森、函館などいくつか都市名が書かれていた。そのビラは、当夜の風の吹きまわしからか、市中には散らばらず、海岸寄りや海面に束のまま浮いていた。

その朝、われわれはそのビラの拾い集めに緊急動員されたが、その現物は、最後に陸軍憲兵の一喝によって完全没収されてしまった。「所持すること、書かれていたことを他人に伝えないこと」それは仲間のささやきから軍法会議が予感され、家へ持ち帰って見せたら驚くに違いないと、好奇心にかられるままにポケットの隅に隠していた1枚すら、こわごわ提出せざるを得なかったほどだ。その当時、私達は弘前工業学校から青森造船鉄工所に動員された中学3年の学徒動員生であった。

さて、その当夜、宿泊所に当てられていた浜町の旧料亭坂井家での、「敵機侵入、日本海沿岸を北上中」のガーガーラジオ警報、つづいて空襲警報のサイレンは、なにかいつもとは違うものが直感された。先にのべたように、今晩は大丈夫だとした安堵感は、実は何を隠そう、日頃の仮寝姿を今晩ばかりはと、縫目いっぱいのシラミの下着を離し、真っ裸で寝られるということでもあった。初めは辛かったそのシラミも、最後はただ体全体がぼうーとほてるだけ。しかし、そのことは誰も口にはしなかったし、その耐えは戦争への耐えでもあった。ある昼休み、工場裏で誰からともなくシラミ征伐がはじめられたが、運悪く、大湊から派遣の海軍巡回士官の目にふれてしまい、帰宿後全員大ビンタを喰らったことも今更のように思いだされる。

さて、そのただごとでない警報にすばやく服装をつけ、私は日頃の任務である本部伝令として2階のF教官の個室へ。その時すでに上空をごうごうと渡る爆音を聞いたような気さえする。「各自退避」私達も中庭の防空壕へ、といっても、それは本部要員と坂井家の家族の10名位がやっとの小さなもの。その時私はゲートルをつけていない姿のあわてふためきを発見していた。しばらくの沈黙、まもなく「わア!、明るい、明るい」どこからともないその声に、そっと壕内から首を出したそのとき、昼ともまちがうほどに照明弾が中天に煌々と浮いていた。それは恐怖を通り越して、すばらしい花火でも見るような気持ちで目をみはらされた。

先程、明かりが洩れているとにらみつけた隣の浜田屋旅館の窓隅からの光は、昼あんどんのように馬鹿らしい。全く強烈な明るさだ。 それがさらに私を妙な安堵感に誘った。「日本の軍部と戦っている」のだ。あの今朝ほどのビラの通り、その軍需施設を確かめるためこんなにも明るく照らしているのだ。だからおそらく私達までが目標にされることはないのだ、と思った次の瞬間、「スコール」のような寸分隙もなく屋根を打つ音。それは初めて受けた焼夷弾の落下音であった。その一通過を確かめておそるおそるのぞい外の光景は、すでに付近の屋根々々が燃え、宿舎の坂井家の二階は真赤な火の海であった。そして、それが市中全体の光景であることを知るには時間を必要としなかった。

「各自めいめい海岸方向へ逃げろ」それが私の最後の伝令言であったが、伝え回る時間はすでになかった。すばやく部屋にもどったが、天井は燃え、障子には火が走り、自分の寝具から丹前を引き出すのがやっと。私は恐怖を鎮めるかのように丹前を頭からかぶり、部屋々々を走り回った。人影はなかった。 もうみんな逃げたのだ。よかったと思うと同時に、最後まで自分が残って任務を果たしたのだという自負感をも満足せしめた。

ともかく、私とても一刻も早くこの火の海を逃げねばならない。周囲の熱気がものすごい。炊事室傍の防火用水桶に丹前もろとも全身を浸した。 玄関のはりが燃え、私がその下を抜けて間もなくどっと落ちた。助かった。ともかく海岸方向へ。が市中は火の海であり、熱気が風となってふきつける。隣の青森郵便局(たしか三階建てであった)の窓という窓からは火炎が吹きでていた。その下をくぐらない限り、私はどうしても海岸方向へは行けないことを考えて、再びその丹前姿のまま、前を流れるドブ水に二度ほど身を横たえた。

それからどこをどう逃げ回ったか、ふと気づいた時、自分は鉄条網の中の何か倉庫敷地らしい中に入りこんでいることを知った。どこからどうして入ったものか、いくらその入口を捜しても見当たらない。仕方なくバラ線をねじ上げた時、20mとは離れない地面に落下した焼夷弾の特殊なまぶしさ。私はすっぽりかぶっていた丹前をバラ線に残して辛うじてそこをすり抜け、一気に海岸へと向かった。するとそこに大きな壕があり、私も入れてもらおうとしたら、中から「その人を入れるな」という声。 何を!!と思ったが、それは私の防空頭巾に付着した黄燐が燃えていたからだ。先程の焼夷弾のものらしい。私は仕方なく防空頭巾を捨てて壕内に飛び込んだ。壕内には柱時計を後生大事に抱いた老人と孫、一心に南無妙法蓮華経を唱える老婆など。みんなは家族縁者の安否にがたがたふるえていた。

私は外に出て海の香をかいだ。時おりドラム缶が煮えたぎって噴く火柱のものすごさ。そして何もかも一切が燃えている光景が今も記憶を離れない。そしてそれはどんな時刻だったのだろう。ようやく夜が明け放されていく頃合いだった。私はその時一人の年頃の娘さんから、学徒動員の方でしょうと声をかけられ、救急袋から出された一握りの煎り豆をもらった。誰もが一粒の食糧にさえ奪い合いをしていたあの時代である。それは私にとって終生忘れることのできない感動であった。後年私はその思い出を次のように詩集(無言鳥・昭和44年津軽書房刊)に収めている。……….スベテヲ焼カレ、タキダシノマッ白ナオニギリヲ泣キ泣キタベタ空襲ノアクルアサ 逃レ狂フ炎ノ中デ、名モ知ラヌ姉カラ貰ッタ一握リノ煎豆…………。

明け方、火の鎮まりを待って宿舎跡へ、空腹に耐えかね炊事室跡をのぞいたら、混食の大豆と米が、傾きかけた大きな釜の中で黒こげになっていた。それをみんなで少しばかりほおばったり、救急袋へ詰め込んでみたりした。 赤く焼け焦げた塩もあった。そのすぐ傍に、寮で飼っていたにわとりが焼け死んで異臭を放っていた。ぼつぼつ集まってきた仲間達、幸い一人の怪我人もなかったことが確かめられ、蜆貝町の焼け跡の工場整理へ。

もう昼近く、やっと市役所前に座らされて炊き出しのニギリメシと二切れのタクアンをいただいた。 これもまた終生忘れ得ぬ味であった。日本にはまだ白い米がある。だから日本は戦争に負けることはないのだと、私は深い感動にひたりながら、あふれ出る涙とともにニギリメシを食べていた。そして、たとえ全部が焼かれてしまっても、こうしてまっ白なニギリメシが与えられたことに、日本人として生まれてよかったとしみじみと感じたものであった。

ともかく私達はひとまず各家庭に帰ることになり、駅まで歩いたが、その道々でのぞかせられた惨状については改めてペンを走らせるに忍びない。青森駅にたどり着き帰宅のための特別列車を待っていた頃、ふたたび敵機来たるの警報。今度は焼け残りのコンクリート構造物を爆撃するのだというデマとなった。私達は一刻も早く街を離れようと、新城方面へくもの子を散らしたように必死の駆足、々々。しかも道路や線路を離れた田んぼをたどりたどってのあの必死の駆足。生涯忘れられない体験だ。幸いそれはたった1機の、昨夜の爆撃の偵察らしく、その通過を確かめて新城駅から汽車に乗り、午後の陽のまぶしい弘前駅頭に降り立った。

弘前の街は、昨夜焼け野原となった青森とは違って嘘のように静かなたたずまいを見せていた。その時、初めて自分の身なりに気づいた。地下足袋はもうカカトが抜けてぱくついており、服もあちこち破れ、下水のドプをくぐっているため、あのドプ特有の水あかのぬらぬらが乾いてくっつき、その朝のたきだし一箇の空腹顔。考えて見たら、顔はおろか、手も何も洗っておらず、破れた救急袋をだらりと下げた姿は、まことに一等乞食以上の一語につきていた。

しかし私達は生き、今もこうしてあの時代からは想像もされなかった文明の中に生きている。あの一夜で亡くなられた700余の人びとの魂は、戦災死という尊い犠牲死ではあったが、今や忘れられ勝ちでさえある。私は当時の一学徒動員生として、あの戦災から学んだ終生忘れ得ない人間性の勝利をも含め、再びあってはならない戦争への誓いのためにも、敢えて偽らざる心情を綴らせていただいた次第である。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)