青森空襲の次の日、青森療養所(現平内町小豆沢)で療養中の私達傷痍軍人は、思いもよらない昨夜の空襲で、損害を受けたという、青森市内の様子を知るため、患者代表五人(元気な人)が青森市へ行き、夕方帰って、市内の様子を詳しく報告し、初めてその現実を知った。
その時の第一声は「浦町駅から海が見えたー」との言葉で、とても信じられなかった。「本当か」と問うと、興奮して、「そうだ」と答えた。私はどうしてもそのことが納得できなかった。私が住み馴れた町だけに、私の頭の中には家々に囲まれた浦町駅で、国道をまたいで海までは多くの家がある。駅から海が見えるとは想像できなかった。そして、焼跡には多くの亡骸があったとも言う。だとすれば戦場そのもののようだ。
「行ってお手伝いをしたい」と思っても、療養の身で、それはできない。 新城村石江(現青森市)にあった青森県立青森学園(現中央児童相談所)には、父母と姉が勤めていて、生徒と一緒に生活をしていた。どうしているのか心配した。(戦災はまぬがれた)。一夜にして命を落とした人達のことを、死を覚悟して出征した我が身と比べ、本当に気の毒でならない。命を長らえて、寝台で安静を守りながら、病室の窓から緑の山々を眺め、亡くなられた方々のご冥福を祈った。
7月28日、「空襲警報発令」のサイレンが山々にこだまし、避難体制に入った。自力で歩く人、体を支えられて歩く人、個室の患者は担架で裏山に運んだ。個室の患者で「行かない」という人もあり、涙を誘う。夜空に響くB29の轟音、山の背の向うが、赤々と燃えている。時折閃光がきらめく。暗い夜空の真赤な光の下で・・・・と、悲しみをたえて、アレヨアレヨとただ見つめているだけだった。空襲の様子を遠くから見たのであるが、あの夜の空の情景を忘れることはできない。
今もはっきりと覚えている。戦争の勝利を信じていた私は、連日の米艦載機グラマンの攻撃をみて、どうなっているのか、心ひそかに気にかけていた。朝5時頃になると、グラマンが飛来して攻撃をする。絹を裂くような音、機銃掃射の音、ものすごい爆発音、次から次へと遠くから響いてくる。幸いに療養所はねらわれなかった。
あとで姉から青森空襲のことを聞き、市民の苦労を知ることができた。家を失った市民が、国道を西へと向ったという。 青森学園はその国道沿えにあったので、水を求めて立ち寄る人、中には泊めて欲しいという親子連れ、青森学園を開放して、教室や作業場に宿泊させたという。
青森空襲の惨状を知るにつけて、戦傷病者でありながら、戦争の空しさを痛感し、何のための戦争だったのか!と我が身を攻めた。 私は終戦後も療養に励み、昭和21年5月、療養所を退所し、復員した。戦者と共に歩んだ非業の道、今はただ戦災で亡くなられた方や戦死された方々のご冥福を祈るだけである。(青森空襲60周年事業「次代への証言」青森空襲を記録する会 平成17年7月)