私はちょうど敗戦の年の昭和20(1945)年4月から21年1月、追放指令を受けるまで青森県の知事をしておりました。青森市の大空襲は昭和20年の7月28日で、ひどく辛い体験をしました。青森の空襲は、その前に米軍が空から空襲を予告するビラをまいたりしたものですから市民も敏感に感じていたらしく、あの日も皆荷物を積んでぞろぞろと疎開して行く光景があらわれていました。

市街が空っぽになっては困るので、消火活動をする人は残ってくれと触れたんです。夜10時頃、いよいよ空襲が始まったもので、かねて打ち合わせてあった通り、私たちは県庁構内の指揮防空壕に集結したわけですが、境内にはいっていたんでは全く様子がわからないものですから、警防課長の柿崎忠君は、危険を覚悟で県会議事堂屋上の監視哨でみていました。

壕にはいっていても危なかった。 火があっちこっちで燃え上がると風が起こって、壕の中にも熱気をもった煙が吹き込んでくるんです。このままでいたら窒息するぞと、壕を出るにはでたものの、どこへ行ったらいいかわからない。 とにかくあたりは火に囲まれておるものですから、どっちへも行くことができない。最後まで壕に残った人もいましたが、私どもがでた時は一番ひどかった。

県庁はもう半分以上焼けていたし、道路の上を熱風に煽られて、火がかたまりになって、すっ、すっと走って行くんです。県会議事堂だけはコンクリート建物だったもので、まだ焼けずに、赤い餡の海の中にうす黒く見えるんです。 火がはいっていないんです。 そこで議事堂へ行こうということになってはいったんですが、議事堂に初めからはいっていた人もいました。そのうちに周辺の火はだんだん議事堂に迫ってきて、窓枠が燃えだし窓ガラスがメラメラととけだしたんです。ちょうど修理工事をしていてセメント袋がたくさん積んであったので、そのセメントを投げつけて火を防ぎました。

 しかし熱風がどんどん吹き込んで、温度がぐんぐん昇ってゆくものですから、このままここにいたら蒸し焼きになるから、出ようということになった。 出ようたって外は一面火の海―。だがとにかくみんな出ろ、私についてこいと飛びだしたんです。なかなかついてこれなかったんですが、ついて来た人たちは火の中をほうぼうへ散っていったんです。

県庁の庭に消火用の溜池を臨時に掘ってあったもので、私はその池の中にはいりました。 あとから巡査が1人ついてきてくれましたので、2人で池にはいって、池の泥水を、その巡査がどこかで見つけてきたバケツで汲んでは頭からかけてくれたんです。あとで解りましたが、蔦谷という人で、今、川内町(下北郡) で巡査部長、派出所の所長とかいうことで、一度会いたいものだと思います。

火が下火になるのを待ってまた議事堂に戻りましたが、人びとも帰ってきていました。最初はいった防空壕におしまいまで残っていた人たちも生き残りました。 私が飛び出した時がちょうど火勢の一番強かったときらしく、それからだんだん火勢は落ちていった様子でした。

夜の明けるのを待ちかねて、とにかくこれは県民に対して声をかけなければならない。そうしなければ全滅したとみんな思うでしょうし、それで、たしか朝の六時ごろと思いますが、すこし明るくなったところを放送局へいったんです。テレビなどまだできていないころで、NHKのラジオ放送局が提川の向うにあり、焼け残ったというものですから、でかけていったんです。何しろ歩いてゆくより方法がない。道路にいろいろな物が焼けて散乱していて、なかなか歩けないんです。

長い時間かかって行ってみましたら放送はやっているんです。とにかく放送させてくれ、県民に元気をつけなけあいかんからと頼むと、よろしゅうございますと早速承知してくれまして、すぐ放送を切り替えてくれたんです。非常に感謝しました。なかなかできないことですからね。それで県民に呼びかけをしまして、青森市は空襲に遭ったけれど、私も元気だし、県のいろいろな活動もすぐ始める。まず青森市に食糧を持ってきてくれというふうないろんなことを話して、これにくじけないでかんばれとやったわけです。

この放送は非常に効果があったようでした。 みんなどうなったかと、だいぶ不安を持っていたのが、一応これで安心したということでした。それから議事堂の前の庭にみんな集まって善後策を講じたのですが、皆煙にいぶされて顔は真黒、からだ中泥だらけ。 見られた格好じゃなかったんですが、そんなことを考えているひまもない。まず第一に道路を開かなければいけない。 焼け落ちた電線がクモの巣みたいに道路一ぱいに乱れているし、食糧を持ってきてくれといったって、市内にはいってこれあしないでしょう。こういう時になると消防はよく働きましたね。道路の啓開から死体の処理などほんとうによくやってくれました。

焼けた直後に新しい都市計画を樹てよう。 これを機会に道路を拡げようと思ったのですが、第一議会を開く場所がなくて、議事堂の前の庭で審議会を開きました。それであの国道をひろげて、 それから南北に100mの防火帯八甲通り柳町通りなんかですあれを3本入れたんです。だから国道は、今でも青森市内にはいれば道路がひろがっていて、出口からは狭くなっているでしょう。南北を貫くあの防火帯の道路の幅は、最初100mにしたのを、私がやめてからあと、陳情がでて50mに縮まったのです。私たちが都市計画をやっているうちにもグラマン機がきて、残っている建物を銃撃する始末です。 突如として出てくるんですね。 そう高いところを飛んでくるんじゃないですよ。 操縦士の顔がわかるほど、非常に低いところをさっとくるものだから、あれっと思ったとたんに、バリバリッとやられますね。そうすると大急ぎで防空壕に飛び込むんですよ。しばらく続きました。狙い打ちですから、かなわなかった。

そういう状況で8月15日を迎えたわけです。終戦の予想――それは私には大体ついていました。それは私が内務省本省からきていたもんですからね、情報をとっておったんです。 でも、外へはそのことはいえないですからね。 ポツダム宣言をこちらへ押しつけていたことは、当時は皆知らなかったんですが、私は知っていたんです。 私1人だけです。県庁でも誰にもいわないですから……。私1人で本省と連絡をとりまして、どうもこれは臭いと思っていました。いよいよ8月15日の放送ということになったのですが、ポツダム宣言の受諾とは何のことかわからない人も多かったですね。言葉がむずかしかったのに、機械が悪かったものですから、みんな集まって聞いていても、大いにやれと激励されたのだという人もおれば、そうじゃないという人もいた。

そうですね、とにかく敗戦ときまってからそりゃ大変でした。県民感情みんなの気持ちとの間にギャップがあってはいけないでしょう。仮に180度転換するにしても、その転換の仕方ですがね、そのへんがちょっと難しかったですね。会議を開いても、負けてはいないといってがんばる人もでてきましたしね。いよいよ向こうが進駐してくるときまったのが20日過ぎ、日はよく覚えていませんが8月の下旬でした。敗戦の当座はまだ向こうがこないものですから、まず食糧の問題が主でした。 それで戦争が済んだのだから、みんなよく働いてくれ、元気だしてやってくれというのが、ご詔勅の趣旨だといって、それで今後どうすべきかという会議をあっちこっちで持ちました。そういう時にまたがんばる人がいるんですね。 言葉使いなんか非常に注意しなければならないんです。 敗戦なんていうとなぐられてしまう。 終戦といわなければならない。

それから、たしか9月上旬ですか、アメリカの代表者が戦後処理について打合わせに行くということをいってきました。 初めには大佐と中佐と大尉と3人きまして、それが第1回の下打合わせ。 三沢から青森に来まして浅虫の東奥舘で打合わせをやった。たった3人で乗り込んでくるんですからね。こっちは私と県の幹部で10人はおりました。

その時に軍隊を入れるから、その駐留について打合わせをしたいというので、 青森県下を三つに分けて、中央部と南部と津軽に管轄を分けて、青森市に司令部をおく。 それで中央は司令官(少将)直轄、八戸に1人、弘前に1人準将をおく。青森市内における部隊の駐留地は、こことこことここにしようというようなことを地図で打合わせしたわけです。その時に、なるほどこの調子では負けるなと思った。地図だって、りっぱな正確なものを持っているんですからね。

陸軍がくるまで海軍が緊急占領するということであったが、無電がはいって、北緯40度以北は北太平洋連合艦隊がはいる。 ついては20何日かの午前何時朝早い時刻でしたが、大湊へ入港するその艦隊の旗艦に、代表が礼装でこいというのです。といったって、私どもはみんな国民服です。それで前日の晩、大湊の鎮守府に集まって、翌日指定通りいこうということにした。 ところが陸軍の司令官(中将)が、おれは海軍に降伏する理由はないから行かないといいだしたんですよ。 そんなことをいったら、私にだって外交権はない。宇垣という海軍司令長官(中将)が怒りだして、いかない者は勝手にしろという。私には外交権はないが、向こうの指令であれば行かざるを得ないからゆく、それがいけなかったら外交権を付与するか、外交権のある者をよこしてくれと、間に合わぬこと承知で電報を打っておいて、翌朝みんなと出かけていったんです。夜のうちにはいったものか、連合艦隊がもうずらりと入港しているんです。桟橋にいる兵隊も全部礼装です。武器を持っているかと検査するのですが、私は武器を持っていないが、ポケットに判コを持っていた。これ何かというので判コだといったが、その判コがわからない。とにかく危険なものでないことはわかったらしかった。

旗艦はブナミストとかいった。兵隊が礼装で整列している中を、参謀長の少将に案内されて、アメリカの国旗をはってある砲台の前の大きなテーブルに代表3人が立たされた。軍楽隊がアメリカの国歌を吹奏し、礼砲が打たれ、司令長官が各艦隊の司令官を引きつれて現われ演説をはじめた。自分たちは日本国民を敵にするものではない、日本をこういう事態に追いこんだ軍閥をしているのだというようなことをいって書き物にサインさせた。降伏文書といったんですが、指令第1号なんです。調印をすませ、帰って大急ぎで指令を翻訳させてみると、軍事事項が多かった。機雷をなんとかしろとかそんなことが多かったです。

調印のとき、連合艦隊は緊急占領はするけれども兵隊は1人も上陸させないといったのですが、 マリンという海兵隊が、ときどきこっそり抜けだして上がってきては、物をとってゆくのです。女の長襦袢だとか、位牌だとかあんなものが珍しいもんだから、焼け跡の蔵の中に押し入ってきては持っていくんですね。何しろ自動小銃を片手に持っているんですからみんな怖がってね。そうしたら間もなく陸軍がはいってきたんです。 陸軍は青森に上陸用舟艇できました。それも夜明けにです。 約束の時間より早かったです。暗いうちにずらっとはいってきました。 戦闘態勢でねー。

その時きた司令官がポール・ジェー・ミューラーという少将。仙台にはグリスワードという司令官がおりましてこれが中将。ミューラーはフィリピンのレイテ作戦でマッカーサーを助け、信任の非常に厚かった人で、あとではマッカーサーの参謀長になったくらいです。その人を青森県によこしたというのも、青森県を対ソ作戦上、とくに重視したので、連合艦隊を上陸させないのも、またあとでは1個師団の兵力を置いたのも、やっぱり北方作戦だったと思いますね。ミューラーは市の公会堂にはいって、ここを司令部としました。 公会堂は焼けなかったのです。

私が進駐軍によばれたのは3回ぐらいでした。 第1回はミューラーに会って、いろんな条項をだされ、それをすべてお前に任せるから責任をもってやれ、ということでした。 第2回は私の方からいったので、 青森県の状況などよく説明し、食糧事情など訴えてきました。 第3回目は向こうからきてくれといわれて行ったのですが、武器の収集が約束通りできていないじゃないかというのです。あっちこっちからまだ日本刀などがでてくるということで、この3回より行ったことはなかった。非常によかったですよ。何か用事があると向こうから中佐級が連絡にきましたが、なかなか礼儀正しかったですね。ちゃんと秘書を通じてね。

ところが12月か1月かにミューラーがかわりました。そのあとに来たのは中佐でしたね。幹部がすべて入れかわりまして、それから程度が落ちたようですね。そのころ私も追放指定でやめましたが、後任の大野連治君がよくこぼしていましたよ。もうしょっちゅう呼びつけては、くだらんことをいうんだといってね。とにかく、昭和20年という年は二つ悪いことがあった。冷害と敗戦でしょう。ですから21年はえらかったと思うのです。淡谷悠蔵君などがね、馬に乗ってきて、そして食糧をよこせとかいって、たくさんぞろぞろこられた時、あの時の青森警察署長は工藤六三郎君でしょう。私にでていっちゃいかんというのですよ。私はね、何も危害 を加えるわけでもないんだから出ていって話し合ったってかまわんじゃないかと、だいぶ工藤君とは論争しましてね。あの時、そう大沢久明君がいました。 今の津川君なんかまだ若くってね。 思い出しますよ。 (談)
(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)