青森大空襲―――この五つの文字を書き記すとき、われわれは青森県防衛の第一線に立って、郷土を死守した乙女たちの一群のあったことを忘れることができない。それは青森防空監視隊本部に勤務していた女子隊員たちのことである。国運をかけた決戦で、殉国の信念に燃える彼女たちの日常生活とその活動ぶりは、当時の若い人たちの憧れの的とになっていた。
もともと、この防空監視隊本部の任務は、県下各重要地点18カ所の防空監視哨からの情報を受けとり、これを取りまとめて即時第八師団司令部(弘前)の情報部に送りこむことにあったのである。そのような重大任務をおいながら隊長(青森警察署長)副隊長(若干名)以外は、各班長以下全隊員は若い女性をもって構成されていた。
最初、本部は青森警察署二階の一室におかれたが、手ぜまになったので、署と青森県巡査練習所の中間(現中央図書館あたり)に、二階建ての独立庁舎を急造した。そして戦局がようやくきびしくなったころ、署のすじむかいのキリスト教会(レンガ造りの建て物、現県病向かい富国生命会館ビルのところ)に移転した。(当時、青森防空監視哨は青森警察署屋上の望楼にあり、監視隊が独立庁舎に移転のさい、県会議事堂屋上に移りその後さらに浪打の測候所に移転した)
たまたま7月14、15の両日、青森市は港湾、船舶、市街に敵艦載機の爆撃と機銃掃射を浴びて混乱した。とくに連絡船のほとんどは撃沈され、その他に予想以上の被害をこうむったのである。このとき一般市民はもちもん、防空従事者にも、それぞれ退避の指示、命令が発せられ、これにしたがって防空壕等に退避した。しかし、監視隊本部の女子隊員は、最後まで電話機のそばを離れず、相つぐ情報を急報しつづけたのである。この日の女子隊員のけなげな活躍は、隊長をいたく感激させたことは論をまたない。
7月28日この日午前8時、上番勤務班として第二班松下班長以下22名は、塩谷副隊長から勤務上の注意・指示を受けて第一班と交代したが、日中は特別な情報もないままに夜にはいったのである。ラジオ情報は午後8時30分警戒警報、10時10分空襲警報を伝えていたが、10時33分には、青森監視哨から「東4キロ付近焼夷弾投下」の報がはいり、つづいて同40分「市内各所に火災発生せり」との急報がとびこんできた。この時監視隊本部にも15、6発の焼夷弾が落下していた。すでに駆けつけていた第四班坂上班長以下14名は熱風と猛火をものともせず勇敢にもその消火作業に挺身していた。10時45分、小湊監視哨の通信線切断にはじまり、55分、弘前師団との通信途絶を最後に万事は休止の状態となった。通信員は、通信機をせおって本部前に集合した。11時である。
以下当時の記録 (青森県警察部提供)は、・・・火災益々猛烈トナリタルタメ遂ニ、二十三時二分一応全員=塩谷副隊長ヨリ敢闘ヲ感謝シ避難方法ニ付キ注意ヲ与へ、小島副隊長ヲ指揮者トシテ松下第二班長、坂上第四班長以下十六名柳町疎開道路ヨリ南へ避難/予定ニテ進ミシモ途中ノ家屋延焼猛烈ナルタメ進行出来ズ、反転国道ヲ西進シテ古川跨線橋手前ヨリ浪館通り二避難セントセリ
久我副班長以下五名横道ヲ利用シテ無事市街南方突破成功セリ
小島副隊長以下五名、三内村=無事避難シ、一行ニ遅レタル六名、国道通り古川巡査派出所西向ト道路=漸ク辿リッキタルモ、附近路上=焼夷弾数十発炸裂四周火ノ海ト化シ進退遂ニ谷マリ、 哨煙ニ包マレ通信機ト共ニ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ・・・と伝えている。
ここに、戦死者6名の芳名を記して、あらためてそのご冥福を祈りたい。
班長 松下好 本籍 青森市新町139 戸主 安蔵長女(25才)
班員 三浦たま 本籍 青森市大町48 戸主 常次郎長女(21才)
班員 千葉しげ 本籍 青森市古川字美法15 戸主 岩五郎次女 (20才)
通信主任 鈴木律 本籍 青森市博労町10 戸主 久逸長女(21才)
隊員 阿保とし 本籍 青森市安方町163 戸主 民之助四女(20才)
隊員 葛西ゑつ 本籍 青森市長島106 戸主 友次郎長女(23才)
なお、鈴木主任、葛西、阿保両隊員は古川留目花屋付近で、千葉隊員は古川市場付近でその遺骸が発見されたが、松下班長、三浦隊員は行方不明となっている。しかし、留目花屋付近には確認不能の遺体が数多くあったことから、その中に、松下班長、三浦隊員の遺骸がふくまれていたのではなかろうかともいわれている。
7月29日、危うくも死地を脱しえた隊員は、焦土と化した本部前で黒光りする顔をあわせ、今は亡き6人の戦友の御霊よ安かれと合掌したのであった。そして、8月4日午前8時、青森監視哨の所在地である浪打の旧測候所で通信業務を再開したのである。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)