戦場となった青森

淡谷悠蔵(青森空襲を記録する会顧問)

 青森の空襲は、余りにも大きく酷烈を極めたもので、それでもう戦争は終わったものという感じが残っているのは無理もない。空襲で死んだ人の数もはっきりせず、肉親の死体を葬ることの出来た人も少なくなかっただろう。

 焼き尽くされても尚戦争はつづいていたからだ。廃墟の上にまたグラマンの編隊が襲って、機銃掃射で焼け跡に動くものを追い、焼け残ったものをまた焼夷弾で焼いた。そうした戦場で市民の焼け爛れた屍体が収容され、三内の墓地に運ばれたのだ。

 暑い夏の日は死体を早く腐乱させ、死臭腐臭は墓地をこめていた。機銃掃射の下での死体の収容や始末がどうなされたのか、機銃掃射のひまを縫って、トラックに死体を投げ込んでいるのは、こっちもグラマン機の下を逃げかくれながら見かけている。

 だが実際そうした危険はなかなか聞けない。そうした人を尋ね出せないでいる。もう亡くなっている人もいるだろう。生きていても思い出すのもいやなことを思い出したくもないだろう。だが、今、それを記録しておかないと、その惨烈な事実は永久に語り継がれることはないだろう。

 青森空襲は1945年、昭和20年7月28日である。それから8月15日、終戦の詔勅が下るまで、青森市民は18日間、徹底抗戦どころか、住む家もない廃墟を逃げ惑って生きていたのである。

 空襲を記録することは、ただ記録することでもなければ悲しいナツメロでもない。こうした悲嘆をふたたび繰り返さないために、たじろがず、その悲惨の事実を思い返して伝えるのは体験者の義務である。“知らなかった”では言い訳にならない。

 知るということは、戦争を再び来たらせないための“武器”である。

(1982.5.18記)
次代への証言第二集

「青森空襲」沢田とき

当時26歳だった沢田ときさんは、青森市花園町に住んでいた。夫の哲雄さんは、2年前に戦場でマラリアにかかり、病死していた。義父母と共に、子供を抱きかかえながら逃げ延びた。 2019...

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「朝鮮、朝鮮と馬鹿にスナ」黒滝弘

黒滝さんは、青森空襲当時、青森市安方に家族とともに住む、小学5年生でした。https://www.youtube.com/watch?v=lzUTjYO0xuE

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「戦争と空襲」佐藤武

1919年生まれの佐藤武さん。青森空襲当時は、青森市浜田?に住んでいた。https://www.youtube.com/watch?v=TwDwNK0FkU0

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「浦町駅から海が見えた」松尾正輔

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「青森空襲の生き残りー県病の防空壕で地獄を見、そして助かったー」石井妙雄

当時、今の青森市役所のところにあった青森県立病院に入院していて、青森空襲に遭遇した。 青森空襲60周年事業「次代への証言」青森空襲を記録する会 平成17年7月https...

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「青森空襲を風化させるな シニアリーダーとして」古木清隆

当時、13歳で、旧制中学校2年生だった。 青森空襲60周年事業「次代への証言」青森空襲を記録する会 平成17年7月https://www.youtube.com/wat...

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「苦しかった空襲後」石村サキ

 昭和二十年七月二八日は忘れることの出来ない恐ろしい空襲の日ですが、私の最初の印象は、にくらしい程きれいな、焼夷弾の明かりでした。

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「火輪の地獄に」小林妙子

 昭和二十年七月二十八日。警戒警報のサイレンが寝入りばな、夢うつつの中に流れる。

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電子紙芝居「伝えたい記憶」富岡せつさんの青森空襲体験

故富岡せつさんが12歳だった時に体験した青森空襲を元に、多くの方々の協力を得て、デジタル紙芝居として制作しました。特に、若い方々にご覧いただき、戦争のない世の中にしていただきたい...

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「赤と黒の思いで」福山正晴

 その日、昭和二十年七月二十八日は、家内と私が疎開先の三内どまり。家内の父と妹が古川の家に、その何日か前に仙台の空襲があって、とても「火叩き」、「防水」なぞ、ものの用にもたたないと聞いていたので─

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「青森大空襲の証言」森 多美

「警戒警報」のサイレンと同時に飛び起き、私は暗がりの中で学校へ出勤すべく準備をしました。
 忘れもしない昭和二十年七月二十八日、青森大空襲の夜。私は橋本小学校に勤めて一年にもならない新米先生でした。

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「終戦前後の私の体験」及川喜代江

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「忘れられないあの日、あの時」三浦登美

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「防空監視隊の乙女たち」伊藤忠一

青森大空襲―――この五つの文字を書き記すとき、われわれは青森県防衛の第一線に立って、郷土を死守した乙女たちの一群のあったことを忘れることができない。それは青森防空監視隊本部に勤務...

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「戦災に学んだ人間性 一学徒動員生として」成田堅護

昭和20(1945)年7月28日、その夜の就寝時刻が何時であったかは記憶にないが、その時刻少し前、しょぼしょぼと小雨が降ったのを忘れない。なぜその記憶が残っているのか。強いていえ...

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「みじめな拓北農兵隊」山下三郎

私が青森空襲を体験したのは、まったくの偶然からであった。あの空襲の日まで、私は青森というところに、行ったこともなければ、行こうと考えたこともなかった。私は、あの日、まったく偶然に...

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「青森大空襲・私の場合」鳴海正子

私の家は、国道からちょっと山手に入った所で、元の県立病院の横の方、隣りは外人の経営している幼稚園でした。その隣りは不動産会社だったと思います。私の夫は海軍軍人で、二十年四...

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