空襲当時は長島桜町(現・長島小講堂向かい)に住み、青森電話局に交換手として勤務していた。父は徴用で船に乗り、 母は心臓が悪かったので新城へ疎開し、弟は軍隊、私は勤務の関係もあって叔父さん等と市内に暮らしていた。

市外に疎開していた人が昭和20(1945)年7月28日までに帰らないと配給が停止されるとの情報がながれ、叔父さんの子供達が帰ってきた晩(28日)に空襲された。その日電話局では「今夜空襲されるという情報が入ったがそれはデマだ」ということだったので、幾分心を静めて帰宅したのだったが空襲警報と同時に防空壕に退避したが、間もなく爆撃音、延焼音など想像もつかないものすごい音となり、叔父さんも「防空壕にいては危険だ。安全なところへ避難しよう」といわれ、おそるおそる外へ出た。猛火の中をちりぢりになり、焼夷弾を避けるため軒下にかくれながら精一ぱい逃げた。気がついてみたら田んぼの中(機関区の裏のような気がする)におりました。焼夷弾と、炎を避けて走りつづけてきた疲れも忘れ、真っかに燃え続ける様子を見ながらその場所に居合わせた小学校の同級生と2人、濡れた丹前をかぶって、夜を明かした。恐怖の一夜は明け火もおさまった。ふとわれにかえる。 ゆうべは防空頭巾をかぶり、モンペをはいて、みそ豆の焼きこがしたのと、干餅の入った非常袋をさげて逃げた。無事でよかった。叔父さん達はどうしたろう。無事であればよいがと、いろいろ想い考えるようになった。

翌朝、電話局へ行った。幸い建物はそのまま残っていた。同僚達は、空襲の恐怖におののき、ただわいわい泣きつづける。・・・同僚の安否を気づかい、家族の生死を話し合いながら・・・私も、私のことを心配している新城の母のもとへ歩いて帰った。空襲に関係なく局の業務はすぐ続けられた。当時は、一般の人に電話がかかっている最中でも、軍からの情報が入るとすぐ切られるなど、すべて軍優先の電話事情でした。局近辺の倉庫がくすぶり焼け、局舎に煙が入ってきて大変な目にあいました。今でも目につくが、焼け跡で猫が四つ足で立ったまま焼け死んでいました。

また片岡あたりと記憶していますが、焼け残っている家に、顔中やけどだらけの人がいて、非常線を張り「ここは残ったところだから入っちゃ駄目だ」と、自分の財産を守るためだったのでしょうが、意地の悪い人もいたものだと思いながら、新城へ向かったが、あまりの焼け野原のため、どこをどう歩いているのか、全く見当がつかない位でした。また、駅前の砂糖の入っていた倉庫が、焼け落ちたときも、その砂糖に群がる人達が、 蟻のように思われたこと、電話局のそばにあった冷蔵庫がくずれ、中に入っていた焼け「ほっけ」をとるのにたくさんの人々が集まったことも印象に残っている。

7月28日の空襲もさりながら、7月14日は私の生涯忘れることのできない日であります。この日は、敵艦載機の襲撃で、青函連絡船が数隻撃沈された。 父は徴用で民間の船に乗っていたが、たまたま14日帰宅するという電報を受けたがその日は帰らず、後で○○へ出帆するという簡単な手紙を受けた。 14日函館のドックを出たとき、連絡船とともに父も撃たれて死亡したのです。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)