予感
「こんどは青森市だ」というビラが撒かれたのが昭和20年7月27日の朝であった。われわれの消火作業のバケツの手送り体形も、防空壕の出入訓練も、それぞれの町会の特徴ある指導と、県警察部の細密な指令で「敵ござんなれ」と、意気旺んなものがあった。
私は新聞社の防衛副隊長であると同時に、私の町の町会長でもあった。7月28日、時々警戒警報でおびやかされたが、人々の神経は、もう馴れてしまっていた。そして、きのうのビラについても「コケおどし」くらいにしか感じていなかった。私はこの夜当番であった。 夕食をとりに家へ帰ったのは7時頃である。ズボンにゲートルを巻いたまま、私は任務の発令となる警戒警報を待ってラジオの前に寝転んでいた。9時のニュースも何事も新しく報道することなく過ぎた。この分ではいっぱいやられるなと、胸のどこかでつぶやく自分を感じながら仮睡に落ちかかった時、ジジーというブザーが、全神経を刺激した。
「警戒警報!」とっさに私は立ち上って剣道着の上に上衣をひっかけ、雑のうと水筒に水を入れて両肩からたすきがけにし、編みあげ靴に足をつっ込んでいた。「行ってくるよ」いつもはこういって自転車に飛び乗るのであるが、この夜は、どんな風の吹き廻しか、「気をつけなさいよ、いざという時はリュックもみな防空壕にいれて、持つものは飯と町会印と罹災証明書類、町会員名簿!」これだけ口早にいって飛び出した。いつもは「いってらっしゃい、御苦労様」という妻がその日に限って「いってらっしゃい、お気をつけて」といった声が、いつまでも記憶に残るくらいに強くひびいた。
町角にきて背中が変に軽いのに気づいた。防空頭巾と鉄かぶとを忘れてきたのだった。 「間抜けめ」と独り言をいいながら引き返したが、こんな事は警報騒ぎ以来初めてのことであった。会社について、防衛隊の非常配置、被弾の時の持ち出し担当をきめたのが午後9時40分、その時ラジオの物狂おしげなブザーがはじめてきく空襲警報警戒警報に耳なれた耳に、少しの不自然さもなく、居合わせたものがみな一様に、待っていたものが来た、という面持ちで顔を見合わせた。
万事休す
海鳴りのような轟音が聞えた。西空だ。社の玄関前の道路の中ほどに立って西の空を見る。 腹の底にひびくような音。ポッンと赤い灯が浮んだ。ひびきが強くなってきた。こんどは黄色い灯がふわりと浮んだと見るや、それがマグネシュウムの光のようにパァーッと光って、ゆらゆらと落ちてきた。「何だ、焼夷弾か」「いや照明弾だ」ガヤガヤいう声がみな上ずっている。灯が不気味なほどに確実な段階をふんで現われ、それがいかにも作為的であることに、独りでに心が引きつけられるような感じで興奮しているのだ。
サーッと雨のような音、それと同時に眼前に尺玉以上のしだれ柳のような花火が、ザーと尾をひいてひろがった。焼き討ちがついにはじまったのだ。爆音が頭上にきた。 「来たぞ!」 と、 どやどやっと社内へにげこむ。しかし事なく通過した。また外へ出る。 第2機目、花火は市の西端の辺に撒かれた。3機目はすごいひびきをたてて頭上を通過したかと思ったとき市の東の辺りがボーッと赤くなった。 それから南、海岸附近と爆音一過毎に四方に火の手が揚り都心目がけて迫ってくる。「わかった、アメ公の奴、四方から攻めはじめたんだ、次は県庁か」何10機かを見送って、もう糞度胸が出来てきた我々は次はどの辺かな、と観測したりしていた。
サーッという何十度目かの音をきいた。と向い側の警察署がみるみる火炎に包まれていく、右側の県庁がこれまた盛んに燃える。 隣りの農業会にも火が揚った。社長室が燃えはじめた。 朝日 (青森支局)が落ちている。万事休す。 社長室が燃えはじめたときいて、階上に駆け上っていくと、もうもうたる煙りの中で、まだ黒い人影がカーテンで火をはたいていた。「逃げろ! 逃げろ! もう駄目だ」私は部屋から部屋へ、工場へと叫びながら走った。 バタ、バタと裏手から防衛隊員が逃げていく。もう一度階上へかけ上って叫んだが、もう声がない。 バリバリと燃える音だけが物凄い。「誰もいないな!」と数回確めて、裏口から出ようとしたとき、二間足らずの通路を隔てた県警察部官舎が軒を並べて燃え上り、焰がメラメラと地をはってこちらへ迫ってくる。 むっとくる熱気、異様な悪臭に息がつまる。このままだと黒焦げだ。
突嗟に、大型水槽に頭からドブンと飛び込んだ。 そして地をはう火焰の下を走って防空壕が3つある裏の空地まで辿りついた。私は第1の壕をのぞいた。人がいる。3人もいる。「バカッ、早く逃げろ、死ぬぞッ」私は、本気で怒鳴った。棒でも持っていたら、殴りつけたかも知れなかった。重要書類の入っている大きなリュックを背負った庶務部長以下3人だった。火の海を泳いで、建物を疎開した広場のドブに飛び込んだのが何時だったかわからない。 腕時計が11時10分前で止っていた。
泣きわめく老幼
ドブから出るまでの3時間か4時間は話にきく焦熱地獄そのままであった。ドブといっても、あぐらをかいて漸く入れるほどの幅で、肩から上が地上にでる深さ、水らしい水もなく、手に持っていたバケツや鉄甲で泥をかぶるのである。私の隣りに孫らしい5、6才の女の子を抱えるようにかばう婆さん、消防員や警官、われわれの同僚、お互いが励まし合う。 物凄い竜巻きが教会堂を包んだかと思うと、赤緑、紫の火柱となって、それがグルグル大きな塔の形でこちらへ移ってくる、「ワーッ」とバケツをかぶり婆さんをかばってうつ伏す。グラグラと真赤に焼けた赤がねの屋根板がどぶの上に積み重なった。火柱が倒れて、火勢が一時弱まった。首をもたげて辺りを見る。 地獄絵というか、 炎々と燃えさかる青森全市である。空を焦し、地をはい、立ち木を横殴りにして焰が荒れ狂う。その時、突然現われた空の怪物、パッとひろげた真赤な翼、グーッと低空に下ってきたB29の恐しい形相。この時ほど物凄さを感じたことはなかった。
こうして青森市は僅か2時間くらいで、 青森駅、県議会議事堂、市公会堂、勧銀支店、青森銀行、蓮華寺、浪打小学校とその一小部分の民家、浦町駅と附近民家、旭町の一部を残して全市の九分通りが焼きつくされてしまった。 この夜、北津軽郡五所川原の警察の楼上で飛来米機の数をかぞえていたら180機であったという。焼失総戸数15930戸、死者647名、負傷者の数は1000余名、戦災前10万余を数えた人口が、その年の11月人口調査で56653名に減っていた。東奥日報でも総務局長以下6名の死者を出した。
私は、この戦災記を書きながら、是非知っておいて貰いたいことの一つをここにあげたい。身体の殆んど全部が焼けただれ、眼も鼻も耳も、その位置がわからないくらいに火傷を負うた未婚の青年が、いま、赤鬼のような顔をムキ出しにしながら、旺盛な生活力で、しかも明朗に生きている事実である。その夜彼は(東奥日報社調査部員蝦名俊夫当時27才)私の連絡員として配属されていた。 既に戦車兵として、実戦の経験を持つ逞しい美青年であった。彼はワイシャツの腕をまくり、防空頭巾も持たず、 鉄甲を背に私の側から離れずについていた。何発かの焼夷弾が落された時であった。「あっ、あの火の手は社長の家の近所だ、応援は何人いってるか」「2人です。 確か工場から2人行っているはずです」「それじゃ足りない」私は病みあがりの社長の、のろい動作を思いだし、絶対2人は社長に附き添うべきだ、と考えたトタンに出た声だった。「隊長、私もいきますか」彼は、腕をまくり上げて叫んだ。 彼にいかれると私は全体を指揮するのに独りで走り廻らねばならなかったが老社長のことを考えると「頼む」と、いわざるを得なかった。
悪夢のような夜が明けて、焼けあとに佇んだ防衛隊22名(被災直前は約70名)の点呼を終って、二列横隊のままボンヤリ金庫蔵と防火壁、それに裸の輪転機しか残らない社屋を眺めていた時、誰かが、「あっ、社長だ」と叫んだ。 まだブスブスと燃えている社の敷地の中から大柄な社長が、もっそり現われたのだ。「社長が無事だ」と叫んだら、思わずみんなが「バンザイ」と叫んだ。何のバンザイかわけのわからない涙っぽい声であった。社長も感無量の態で、大きな手を「やっ、やっ」とあげるばかりであった。「最後のドブに残った者22名でした」報告をしてから、私は社長から特別に応援を繰り出した礼の言葉があることを期待したが、何もいわない。「蝦名は何時頃到着しましたか」それとなく、 誘いの水を向けたが、「いいえ、蝦名君は来ませんでしたよ。少くとも私共が山の手へ逃げ出すまでには・・・・・・」私は応援の増員をした事情を述べながら忌わしい不安に襲われた。
夜がすっかり明けた。5時頃である。だが私には未明の明るさである。視界がさだかでない。 一間離れれば、相手の顔がぼんやりとぼかされる。 私は軽度の近視ではあるが乱視も加わって眼鏡をかけていたが、こんなにぼやける筈がなかった。 (眼が焼けた) あの社屋から脱れ出る時、いく度か火焰になめられた。その結果だろう。だがそれどころではない。私の連絡員の行方がわからないのだ。みんなは「あの敏捷な男のことだ、今頃は近郊の村で朝飯でも食ってるだろう」と、案外楽観しているが、私の胸の底には何かわだかまるものがあった。
焼土に立つ
蝦名らしい青年が赤十字支部の附近に焼けただれて虫の息でいたのが、公会堂に運ばれて手当を受けているときいたのがその日の夕刻であった。心ははやるが、私にはする仕事が余りにも多かった。 次々とくる情報は、蝦名は無論助からない、というだけ。 医学的にも全身火傷で生きた例が少いという。その声をきく度に、私が殺したような、済まなさで胸が一杯である。「何故あの時、腕まくりしていったんだ。何故防空頭巾をかぶらないんだ」私は、私の脳裡に浮ぶ亡霊を叱りつける。そうでもしなければ私は耐えられなかった。
新聞は1日も休んではならない。 旭町の奥の焼残り人家の中に、県警察部の小さな印刷所が残っていた。其処でタブロイドの四分の一でもいいから出さなければならない。私は其処に陣取った。一方、再建までのつなぎに秋田魁へ、河北新報へ、それぞれ特使がたった。そしてタブの半分であったが号外を出して「新聞は生きている」ことを証明したが、私は1日たち、2日たつ中、全身焼けただれ切った蝦名が生命を持ちつづけているばかりではなく、生きる自信をもちだしたという情報を受けた時には、彼の超人的な肉体に驚くとともに、私も許されたような安らいを感じた。
8月15日終戦の詔勅は、そのささやかな印刷所の工場で数人の者だけで、解版の女の子2人か、3人か、植字1人、文選2人それに私であった。 板の間にペタリと坐って、ラジオの前にひれ伏したのであった。 板の間はせきあえぬ涙でぬれ、ラジオがやんだ後も、しばし、ここ10数日の過ぎ去りし方に思いをはせたのであったが、蝦名という青年の「生存」の奇蹟には、私自身非常に心を軽くしたばかりでなく、何か「申しわけがたった」 心安さを感じたものであった。彼はいま、耳朶の一部が残り、眼はひきつり、顔全面が赤く、両手の指は交叉したまま離れないままに、眉も生えはじめ、頭髪ものばし、見た目は醜怪であるが頗る健康で働いている。殊に嬉しいことは今年の春、彼は、その姿、その顔で、みめ美しい妻をめとったことである。
最近、彼はその心境をこう語っていた。「東京の整形外科に入院するまでは、私もいっそ死んだ方がよかった。なまじ生きて、この面で生恥はさらしたくないと思っていた。しかし、皆さんの厚意でこうして最高の医術にまでかけてくれるのに感激して入院したがここで私は考えが変った。入院している人達は私より程度がいい人ばかりである。その人達の言い分をきいていると、どれもこれも戦争を呪い、人を呪い、私は逆にこの人達に嫌気がさした。私は面はどうでもいいものは考えようだ。 人が鬼面といおうが、サルといおうが、一度死んだんだ、一つ朗らかに、楽しくやってみよう。 悪事をしなければ、この鬼面でも相手にされるだろう。そう考えたら、私の将来への考え方がガラリと変りました」彼は新聞社の総務局に席をおくが、相手が不愉快そうな顔をすれば何気なく席を外す術も知っている。
また昔の同僚と会えば、料亭へ先頭切って入っていく気構えも持っている。8年後の今では、彼の存在は、その面貌の変らないままに、人々に与える印象の醜怪さは、非常にうすらいできていることは確かである。これは、彼にとって喜ぶべきことかもしれない。しかし、そのことは別として、彼が青森に生きているかぎり、その醜い顔が、青森罹災の悲惨をまざまざと思い出す記録として、長く人々の脳裡から去らないであろう。絶望から起ち上って雄々しく生きている彼にとってこのことは悲しむべきことかもしれない。
私が最後につけ加えたいことは、誰もが今更のように言っていることではあるが、国民に対する防空訓練の稚拙さである。このことは充分に反省されねばならない。仮令、今度二度と戦争の災難はくり返すまいとしても、自己過信と思いすごしの必然招来するあのみじめな結果はつねに猛省さるべき何物かを我々に提起していよう。
私は県下1110個の防空壕の中で表彰された優秀な壕をもっていた。空襲の夜にかぶっていた鉄かぶとが、その賞品であったが、表彰されたばかりに自信たっぷりであった。当夜も、最少限に詰めた生活要品のリュックを妻に渡して「壕に入れておけ」といい含め、妻もこれを実行したが、焼野原と化した屋敷跡の壕へ行ってみたら、そこにあったのは蚊帳の吊り手の鉄が数個と、日本刀の刀身が黒くなって残っているだけであったのである。もし妻が、壕の安全を過信して、壕内にいたら、どうなったであろう。もとより、かかる戦災は二度と繰り返されるべきではない。しかしながら、空襲から教えられ、学んだことは、日本人の思い上りであった。
時の変貌とともに、かっての悲惨が記憶から流れでようとしている。もとより忘れたいことには違いないが、大事に対処するときの心構えを教えられた空襲は、つねに今後も思い出されて平和を誓う心のよすがとなろう。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)