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1945年(昭和20年)の青森市は、空前の豪雪で年をむかえた。前年12月2日からふりはじめた雪は、連日ふりつづけて、2月には積雪が2メートルをこし「二階から道路にでる」というほどであった。

こういうなか、青森駅や操車場では、隣組や、中学生、国民学校の生徒までも総動員して除雪作業にあたっていた。北海道からの石炭を、京阪神などの軍需工場におくる輸走路をまもるためである。一九四一年十二月八日にはじまった太平洋戦争は、最初は勝ちすすんでいたが、やがて敗色がこくなっていった。

しかし、それから8ヵ月後に日本が敗れるとは夢にもおもっていなかった。すべては戦争を勝つためについやされ、それをうたがう人はいなかった。

学校では軍事教練がおこなわれ、学生は不足した労働力をおぎなうため、勤労動員にかりだされた。軍需工場での作業、防空壕つくり、農地の開墾、さらに「油の一滴は血の一滴」といって、松の根をほり、松根油をつくる作業までした。

3月、東京大空襲があって、空襲はさけがたいものになると、町会や隣組の防空訓練はますますてっていされ、灯りを外にもらさないための燈火管制も、げんじゅうにおこなわれるようになった。

病人、老人、子供は田舎への疎開がすすめられ、建物疎開も強制的におこなわれた。

各家庭や職場では、前年から防空壕をつくることがきめられ、青森市では公共用の防空壕をつくるための土を三内、新城などからはこんだのであるが、運搬する荷馬車がなくて、黒石、五所川原などから手配してまにあわせている。

働ける男は、ほとんど兵隊にとられていたので「銃後」のまもりは、老人や女がすることになっていた。そのため本土決戦にそなえ、「徹底抗戦」の名のもと竹槍で訓練するということさえおこなわれた。だれもが勝てるとしんじ、困難に黙々とたえていた。

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そういう意気込みにもかかわらず、物資の不足はどうしようもなかった。とくに兵器をつくるための金属がたりなかった。このため、銅像や釣鐘、さらには家庭にある鍋や釜まで「供出」させられた。じっさいには、そういう供出をさせても、かぎられたものであった。

石江の相野にあった青森航空会社では、金属が底をつき、ヒバの薄板をかさねあわせ、航空機の翼をつくり、大湊の工場におくっていた。油川にある飛行場は、市民やまわりの町村民が、リヤカーをひき、スコップをふるって滑走路つくりにあたったのだが、そこに配置された飛行機には丸太に日の丸をかき、ベニヤ板の翼をつけた偽装の飛行機まであった。それは、沖館の高射砲陣地でもおなじで、丸太で高射砲にみせかけたのがいくつもあった。

そういうなかでも、八重田にある造船会社では、空襲で船舶がほとんど撃沈されたので、海軍からのもとめで木造船の建造に、動員学徒をもふくめて昼も夜も仕事をしていた。浦町の東洋製罐工場では、動員された女給さんが学生たちと一緒に、魚雷の部品をつくっていた。

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食料の不足はもっとたいへんであった。これまでは中国や満洲大陸からおぎなっていたが、アメリカ軍に輸送路をたたれたので、自給しなければならなくなった。

軍需産業の優先で、農家の働き手の男性は兵隊や工場にとられていたので、病人、老人、婦人、子供しかおらず、生産力はたいへんおちていた。

その農家を学生が勤労動員でてつだったが、それだけではたりなかった。あれていた山野の開墾がすすめられた。雲谷の原野に、第一中学(現北高校) の生徒が毎日あるいて開墾にかよったのをはじめ、新町小学校の生徒は野木和の原野の開墾にあたるなど、生徒は食料の増産におわれた。

学校の校庭は菜園となり、各家庭のどんな小さな庭にもカボチャや豆や芋などがつくられた。
それでも食べ物の不足はどうしようもなかった。

最初お米は一人二・三合(330グラム)の白米が配給されていたが、白米を精米する人も機械もなくなり、玄米にきりかえられた。玄米は身体によいといわれたが、よく炊けないのと、下痢をするので、一升瓶にお米をいれて、ハタキの柄などを利用した米つき棒でつっつき簡単な精白をしたりした。これは子供たちの仕事であった。

しかしそういうお米の配給も、二・一合 (310グラム)にへらされ、しかも芋、栗などの雑穀の「代用食」にかえられたばかりでなく、さらに配給の量が減らされたり、遅配や欠配が日常化するようになった。

市民は少ないお米をお粥にしたり、芋やカボチャなどをまぜて飢えをしのいだのであった。(「次代への証言 青森空襲」平成10年 青森空襲を記録する会 OCRで文字起こし)