兵器をつくる原材料の不足が深刻になるにしたがい、1941年(昭和16年) 「国家総動員法」にもとずく、金属回収令がだされた。これにより、生産ができなくなった紡績機械などの遊んでいる設備をはじめ、お寺の釣鐘、銅像、マンホールのふた、橋の欄干などの金属が「供出」させられることとなった。

戦争がながびき、ますます金属が不足になると、各家庭の鍋、釜、火鉢、など生活に必要なものまで供出させるようになった。さらに、金の指輪、腕時計、ダイヤモンドなどの装飾品までが供出させられた。農民には食料の供出がもとめられた。「ぜいたくは敵だ」 「欲しがりません勝つまでは」という標語があらゆるところにはられ、供出をしない人がいると「国賊」とよばれたりした。

これによって、釣鐘、銅像など貴重な文化財がなくなり、家庭でも先祖からうけつがれてきた貴重品がうしなわれた。「供出」された金属は、兵器にされたが、貴金属のゆくえは不明なのがおおかった。