青森空襲の戦災死者は、一般に737名といわれている。これは県が国に対して報告した「青森市空襲二関スル件」にもとずいている。これはいそいで報告せよとの命令で、とりあえず隣組ごとまとめた数で、その後防空壕からぞくぞく死者がでてきたが、それはくわえられていないと、この報告をした当時の警察署長工藤六三郎氏はかたっている。どれくらい犠牲者がでたかは、いまなをわかっていない。これは空襲をうけたどの都市でもおなじで、それだけ混乱していたということであろう。ちなみに復員省と、建設省の国の資料では1036名。 青森市の20年9月の報告では、7月14、15日と8月9、10日の前後三回をあわせて、906名と報告している。また姫路市の「太平洋戦争全国都市空襲死没者慰霊塔」には、1767名ときざまれている。戦災犠牲者は、三内の墓地にあつめられた。沼のほとりに延々とならべられた。腐乱がはじまっていた。身内の遺体をさがす人たちがつぎつぎとやってきたが、焼けただれて、確認できない人もおおかった。わずかに身につけていた布切れで、親だと信じた人もいた。これらの犠牲者は、たんなる「罹災者」として、なんの補償もされなかった。現在身元判明は560人にすぎない。