(1)
青森県に最初に米軍機があらわれたのは、1945(昭和20年)3月10日のことであった。午前2時ごろ、上北郡十和田湖町付近にとんできたB29一機が、山中にある炭焼き小屋に、焼夷弾六百数十個をおとして去った。

この日、東京は325機のB29によって壊滅的な打撃をうけていた。いわゆる、無差別絨毯爆撃の幕開けといわれる「東京大空襲」である。青森に飛んできたのは、そのうちの一機が迷いこんできたものとおもわれる。炭焼き小屋の火をみて、爆撃したもので、東奥日報は「敵機遂に本県を襲う」と報道している。

アメリカ軍は、東京、大阪、名古屋、など大都市をてはじめに、180箇所の中小都市空襲リストをつくり、爆撃の計画をたてていた。青森市は、48番目にあげられている。最初は大都市から空襲し、ついで中小の都市にうつっている。6月になると中都市の空襲にはいっていた。

青森市に最初の偵察機がきたのは、6月26日であった。以後28日、29日、7月1日、4日、9日と来襲、低空で航空写真を撮影しては、県内の施設をくわしく偵察した。この米軍の偵察にたいして、むかえ撃つ日本軍の飛行機はまったくなかった。青森市では油川飛行場に、数機の飛行機がいたが、いずれも模擬飛行機であったり、飛行士がいなかったりで飛びたつことはなかった。このため偵察機は、ゆうゆうと旋回をくりかえし、ときには飛行士の姿がみえるほど低空でとんだ。この偵察で、青森市の地形、施設、防空体制など、詳細な地図をつくり、攻撃の方法をきめたのであった。青森空襲はこのような綿密な調査にもとづいて、おこなわれたのであった。

(2)
7月14、15日の空襲は、青森市民を恐怖におとしいれた。攻撃目標は、青函連絡船を中心とした船舶や軍事施設であったが、動くものすべてが攻撃されていた。 逃げる馬が機銃掃射されたり、青森湾沖で撃沈される青函連絡船をみて、いよいよ空襲がやってくるのをかんじた。そのためおおくの市民が、近くの親戚を頼って疎開したり、山中に避難をはじめたりした。

それにたいし、7月18日金井県知事は「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建ててでてこない者がいるがもってのほかである。これらは断固たる処分をする」と声明。これをうけて青森市は「敵機来襲におびえて自分たち一家の安全ばかりかんがえ、住家をガラ空きにして村落や山に逃避した市民」には、市の防空防衛をまったく考えない戦列離脱者として断を下すと決定、28日までにかえらないものは、町会の人名台帳からはずすと通達した。それは一般物資の配給をうけられなくなることでもあった。逃避者の汚名をきせられ、さらにそうでなくても少ない食料の配給がとめられるというのは、生きてゆけないということでもあった。

このため、28日までに、避難していた市民はぞくぞくと家にかえってきた。7月27日22時51分と、翌28日0時4分に2機のB29がとんできて、照明弾とともに約6万枚のビラをまいていった。空襲の予告と避難のよびかけであった。これらのビラは、憲兵、警察、警防団によってすべてあつめられ、市民の眼にふれることはなかった。当局はこの予告を「敵の謀略」だとして無視をし、市民にはしらせなかった。疎開先からのよびもどしと、この予告の無視が、その夜の空襲の被害をおおきくすることになった。

(3)
7月28日16時、鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言は黙殺する」と宣言した。同日17時16分、硫黄島から、65機のB29が青森にむけて飛びたった。20時35分牡鹿半島を西北進、21時30分仙台湾を通過。機械に故障をおこした3機は平市を爆撃してひきかえし、のこりの62機がさらに北上をつづけ、男鹿半島へぬけたあと、鯵ヶ沢付近から青森市をめざした。

青森市への爆撃は、7月10日仙台市を空襲した、第58航空団であった。21時15分にだされていた警戒警報は、22時10分空襲警報にかわった。青森市上空にきたB29は、誘導機が照明弾を投下、目標を指示し、つづいて焼夷弾が、4200m余の高度から投下された。

爆撃は、22時37分から23時48分まで71分間にわたって行われ、六角焼夷弾筒38発をたばねたE48焼夷収束弾2186発が投下されたのであった。1機が搭乗員の失敗で投下できず、37機が目視で、24機がレーダーで爆撃した。(投下できなかった1機は、帰路盛岡市に投下した)それは83000発の焼夷弾がふりそそいだことになる。

青森市はたちまち戦場となった。雨のようにふりそそぐ焼夷弾は、空中でとびちり、花火のように美しくみえたが、地上にたっするとたちまち建物を炎でつつんだ。 上空から油がふってきたとかんじた人もおおかった。身体にまとわりつきもえた。それは、すべてを燃やしつくすというものであった。燃えくるう火炎、異様なにおい、まきあげる火の風、窒息しそうな煙、煙。そのしたを市民はにげまどった。堤川で橋桁につかまり、胸まで水につかっていた人。浜町の岸壁で首まで海につかっていた人。柳町の川で力つきて亡くなった人。長島国民学校付近の防火用水に首をつっこんだまま命をおとした人。

防空壕のなかで一家全員が焼け死んだおおくの人たち。ひたすら逃げて、逃げおくれた人は死んでいった。なかには、逃げる途中松原の所で警防団にとめられ、家の消火にもどって死んだ人もいた。猛火は、アスファルトの道路をドロドロにとかした。このため、焼け死んだなかには、男か女かわからない黒焦げの人もすくなくなかった。

夜があけると、そういう犠牲者が、道路のあちこちにころがっていた。子供をだいて、おりかさなって亡くなっている母親もいた。空襲警報がとかれたのは0時22分であった。この空襲で、死者737名、重軽傷者282名、行方不明8名、焼失家屋18145戸(8月3日付け県知事報告)の被害をうけた。わずか1時間11分の攻撃で市街地の88パーセントがなくなった。こういう被害をあたえたB29爆撃隊は、爆撃のあと右旋回して、金華山から太平洋に抜け、7機は硫黄島に不時着したが、その他は29日6時2分から7時59分までに、テニアン島の飛行場にかえっている。日本軍の反撃は、7機が不正確な高射砲の反撃があっただけと報告されている。これは青函連絡船全滅のあと、いそいで東京から、沖館海岸に派遣された、高射砲部隊によるものであった。

(4)
一夜あけた市内は、一面の煙、異様なにおい、まだもえている建物、みわたすかぎりの焼け野原となっていた。そういう中へ、攻撃をうけなかった原別、 筒井、大野、新城、沖館などに避難していた人たちがぞくぞくかえってきた。なにもかもなくなったわが家の前で、呆然としていた。なかにはなにかのこっていないかと、火のなかをかきまわす人もいた。前の夜にしこんでいた釜のお米がご飯になっていたという人もいたが、ほとんどはすべてをうしなった。

昼近くになると煙もすくなくなり、視野がひろがると、駅から堤川まで一望にみわたせた。その上空を、一機のB29がゆうゆうと飛びさっていったが、それは青森市の被害をしらべるものであった。

県の対応ははやかった。29日、県会議事堂前の指揮防空壕で、空襲の日に任命された柿崎青森市長をふくめて、対策がたてられた。罹災者に炊き出しをおこなうこと、死体の確認をし標識をつけ三内の墓地にはこぶこと、道路の取りかたづけをおこなうこと、公会堂、神病院、工業学校、造道国民学校、医学専門学校などに救護所をおくなどがきめられた。炊きだしは、大野や筒井など焼けなかったところの人を動員して、その日からおこなわれた。

この日にそなえてたくわえられていた、お米や乾パンがつかわれたが、それも三日間だけであった。焼けだされた人の、住まいの問題は深刻であった。親類のいる人はそこに間借りをしたが、行き先のない人は、新城、荒川、横内、野内など焼けのこった家に一時的に避難した。市の報告によると、その数は391600人とある。これらの人には物置小屋や、馬小屋に寝泊りをした人もおおかった。青森市内でも焼け残った家では、隣近所の罹災者をむかえいれたりした。六畳一間に12人も寝たりしている。

土蔵ののこった人はそこを住いにしたり、また防空壕を住まいとした人もいた。火傷や怪我をした人は、臨時にもうけられた救護所にはこばれた。救護所は、神病院、公会堂、造道小学校、工業学校、青森医学専門学校、そのほか焼け残った病院や診療所などであったが、どの救護所にも負傷者がぞくぞくとおしかけてきた。その大半は、火傷によるものであった。かかえられながらくる人、戸板にのせられてくる人、肩から腕を切断された人、片足をなくした人、ガラスのかけらを全身にあびてかけこんでくる人、野戦病院さながらの状態でしかも薬は充分でなかった。軟膏をすりこみ包帯をする、救急止血をし三角巾でつつむのがやっとであった。戦災犠牲者の処理は、もっと悲惨であった。肉親に発見された人は、そのまま引きとられていったが、それ以外の犠牲者は焼トタンをかぶせられたまま、放置された。

県と市は、屍体発見のときは道路外にトタンをもっておおいをしておくこと、男女別、 屍体発見場所をかいた札をつけておくこと、トラックで三内墓地にはこぶことをきめ、特別警備隊と警防団の一部がその仕事をしたのであるが、焼けこげて男か女かわからないのもおおかった。なによりも運ぶトラックの手配がむずかしかった。弘前や五所川原からも動員して、ようやくまにあわせたが、市内の道路は焼けトタンなど障害物だらけで、通行ができない状態であった。そのため、屍体の収容は困難をきわめた。

(5)
青森空襲について、貴重な資料がある。「戦訓」と題された、青森空襲の際の反省や教訓をまとめた報告書である。(以下要約)

1.人員の疎開は徹底的にすべきである。これにより、死傷者の被害をすくなくできる。
2.建物疎開は思いきって断行すること。空襲のときは、防火より避難道路として活用され、死傷者の軽減に役立った。
3.物資の疎開は、最小限の身の回り品、食料をのこし分散疎開することが必要である。焼け出されたあとのさしあたりの生活に役だつ。
4.防火に敢闘し火災の判断をあやまり、死傷した人がおおかった。
5.火災後、加熱した土蔵の扉をあけると、火災になることがおおい。なかには一昼夜すぎて扉をあけて火災になっている。また土蔵には水をいれておくべし。
6.貨物自動車や消防車は、郊外に分散させておくべきである。
7.アスファルトの道路は危険である。道路がもえて避難のときに支障があった。とくにゴム靴では通行不能であった。
8.防空壕に避難すれば無事との観念は危険である。 不完全な防空壕に待避して焼死したもの多数なり。
9.海岸に救助船を配置すること。今回3000人以上の避難民が殺到した。
10.防空頭巾は、火災に対しては鉄兜よりも役にたつ。
11.あらかじめ、避難の方法、道路などをてっていしておくべし。

このようにして20項目にわたってかかれているのだが、28日の空襲は圧倒的な焼夷弾攻撃のまえで、これまでの防空訓練がほとんど役にたたなかったことや、家を守るべしとの指導が、命をうしなうことになったこと、防空壕は安全でなかったことなどをあらためてみとめたもので、そういう報告をしなければならないほど空襲は予想をこえてはげしく、苛酷なものであった。この「戦訓」は8月3日、青森県知事より国をはじめ各級機関に報告された 「青森空襲状況ニ関スル件」の最後にしるされている。