戦争が長びくと、兵器の生産がもとめられ、食料の増産も必要となった。ところがこれをささえる労働者が、兵隊にとられたので、それをおぎなうため、女子や学生が動員されることとなった。
もともと学生は、1938年(昭和13年)の国家総動員法によって、中学低学年は三日、高学年は五日、農作業や、防空壕つくりなどに、小学生は農園に奉仕することがきめられていた。それが太平洋戦争にはいると、「奉仕」は「動員」にきりかえられ、兵器工場や、食料生産にかりだされるようになった。1944年には、商業学校は工業学校にかえられ、さらに工業学校は工場になるという、学校工場化がすすめられた。
1945(昭和20年)2月には「決戦教育措置要綱」によって、国民学校初等科をのぞく全学校が、一年間授業を中止して、軍需生産と、開墾などにあたることになった。国民学校初等科生徒も、校庭を菜園にきりかえた学校菜園などで食糧増産の一役をになった。
青森市でも、中学生は市内の工場、大湊、三沢をはじめ、遠くは神奈川の軍需工場にまで動員されて、長時間苛酷な労働について、身体をこわす人もすくなくなかった。工場にいかない人は、雲谷の開墾をはじめ、食料生産に汗をながした。勉強はしたくてもできない時代であった。(「次代への証言 青森空襲」平成10年 青森空襲を記録する会 OCRで文字起こし)