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敗戦のショックのなかで、市民にアメリカ軍が青森市に上陸するというニュースがつたわったのは9月のことであった。これまで「鬼畜米英」と信じこみ、戦った敵方の上陸なのである。市民は複雑な気持ちであった。

その進駐軍が上陸してきたのは、9月25日のことである。午前七時、完全武装した上陸用舟艇が原別海岸に乗りつけた。つづいて安方の岸壁、油川の海岸につぎつぎと上陸し、その数は2100をこえた。進駐軍は市役所がつかっていた公会堂を接収、市内10ヵ所に、カマボコ兵舎をたてて占領政策をおこなった。これをむかえる市民は不安であった。

9月10日の東奥日報は、「各人はなるべく外国兵と接近しないこと」「婦女子は肌を露出しないこと」「独り歩きや夜間外出は絶対しないこと」「住家の戸締まりをすること」など、注意をよびかけている。じっさい上陸の日には、女子生徒は登校を停止し、勤務していた婦人も休ませられた。女の人たちはちかくの田舎に一時的に避難をしたり、山に逃げこんだりした。しかしそういう心配も、何日もしないで消えた。

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それよりも進駐軍の物資の豊富さ、兵士の自由さが不安を消した。上陸のとき、舟がそのまま陸にあがり走るのに目をみはり、プレハブの兵舎があっという間にできあがるのをみて驚き、なによりも食料が十分にあるのがうらやましかった。敗戦のショックと米軍の進駐におびえた市民であったが、食料難と空襲によってうしなった住宅の確保はいそがれる問題であった。

戦争がおわっても配給制度はつづけられていたが、遅配、欠配はあたりまえとなり、市民は食料をもとめて「買い出し」に走りまわった。

野脇にあった青森医学専門学校 (現弘大医学部)では生徒の一割以上が栄養失調になったので70日の休校をきめたほどであった。国民学校でも、弁当を持てない子が多くなって、午前中で授業をうちきるところもあった。この年、青森県はたいへんな不作であった。それでほかの県に援助をあおいだのだが、その県の住民が政府米の蔵出しをこばむということまであって、日本でも「八百万人餓死説」がまことしやかにながされる状態であった。「たけのこ生活」 「栄養失調」 「かつぎ屋」という言葉が流行した。

配給は、戦前同様隣組を通じておこなわれていたが、少ない配給をめぐって、 横流しをしたなどのトラブルがたえなかった。人の心もそれだけあれていたのである。青森市の人口は10月の時点で、56000人。戦前の半分になっていた。これは空襲で焼けだされて、市内をはなれた人もおおかったが、食料の余裕のあるところをもとめて、「食料疎開」をした人も少なくなかったからである。

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住宅不足は深刻であった。行政の中心であった県庁は、焼け残った議事堂と長島小学校に分散して執務をした。市役所は最初公会堂にうつったが、進駐軍にとりあげられたので、蓮華寺の地下室をかりの役場とした。県や市がそういう状態であったから、一般市民が家をつくることはとうていできなかった。からくも焼けのこった土蔵を利用できた人は恵まれたほうで、たいていは空襲のあと、仮の住まいにつくった焼けトタンの掘っ立て小屋が、そのまま住居となった。畳などはなかったし、雨の日には雨もりがひどかった。家とはいえない小屋が、年の末には4000軒もあったのだが、この年は雪のふるのもはやく、11月20日にはもう雪がやってきた。

こういう生活であったから衛生状態も悪く、 ノミ・シラミがいたるところに発生し、発疹チフスがはやった。このため学校や職場、隣組でもアメリカ軍から支給されたDDTという殺虫剤を、頭や背中のなかまであびせられた。(後にこのDDTは毒生があるというので使用禁止になっている)

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学校はようやく勉強できるようになったのだが、焼けだされて学校がなくなったところがおおかったので、 ちかくの焼けのこった学校にかようこととなった。

中心部の国民学校では、外郭だけが焼けのこった古川、長島国民学校がつかわれ、板で囲いをつくり、りんご箱を机に、新町国民学校の生徒といっしょに授業をした。 特に焼けのこった浪打国民学校には、ちかくの生徒が学区に関係なくあつまってきた。

中学校もおなじで、青森中学校(現青高) 商業学校(現商業高校)は、焼けのこった第一中学校 (現北高校)で、二部や三部の交代で勉強した。講堂を区切ったり、時には廊下にすわって授業をうけるということさえあった。

しかも、教科書がなかった。 青森空襲で焼けたこともあったが、進駐軍の方針で、これまでの教え方がすっかりかえられ、そのため、これまでの教科書の一部を墨をぬって教えるということとなった。こういう状態であったが、青森市民はこのくるしさにたえて、今日の青森市に発展をきずいたのであった。