1936年(昭和11年) 小学校の通学区単位に「防護団」の分団がもうけられたのが前身である。もともと防空思想の普及と、年2回の防空訓練が活動の中心であった。1939年(昭和14年)1月、「警防団令」がきめられ、防護団と消防団が統合され、警防団となった。団長、副団長は地方長官が任命し、団員は警察署長が任命している。青森空襲のとき、消火や市民の避難に活躍したが、1945年8月の県知事の報告によると、「空襲警報発令後出勤セル警防団員約三百五十名ニシテ陸海警防団員現員八百二十名ノ半分ニ満タズ」とあるから、それだけの人員をかかえていた。常備消防部と、東京から応援に来ていた消防隊は、最初消火活動をしていたが、次第に火にまかれ、消防車が焼けるということもあり、逃げざるをえなかった。このなかで5人の消防士が殉職した。警防団は市内の要所要所で、市民の避難の手助けをしたが、積極的に避難をすすめる人と、熱心さのあまり、男性は家の消火にあたれと、ひきかえさせた人もいて、かならずしも統一した対応はされていなかった。