1944年の「防空法施行令」によると、警戒警報は敵の飛行機の「来襲うれいアル場合」 で3分間サイレンをならして、市民にしらせた。空襲警報は「来襲!危険アル場合」で、8秒間サイレンをならし、4秒間おき、また8秒間ならす、これを10回くりかえすことがきめられていた。いつだすか、「うれい」と「危険」の判断などは、東北軍管区司令部がおこなっていたが、当時の情報通信設備は充分なものでなく、判断のおくれもあったりした。各地域には防空監視哨が設置され、敵機来襲の情報通知をした。青森では、1942年(昭和17年) 防空監視隊本部が青森市にもうけられ、八戸、弘前などの都市のほかに、三厩、蟹田、小泊、大間、佐井、下風呂など県内18箇所におかれた。最初は男子の哨員であったが、兵隊にとられたので、翌年あたりから、17才から20才までの未婚の女性にきりかえられた。青森防空監視哨は、さいしょ警察の一室を使用したが、のちに県会議事堂の屋上につくられた。青森空襲の時、最後まで任務について逃げおくれ、通信機を背負ったまま、焼死した人は8人もいた。