日本での無差別絨毯爆撃は、1945年3月10日の東京大空襲からはじまった。それまでは、軍事施設や、重要工業施設をえらんで攻撃をする「精密爆撃」が中心であった。一般市民をまきこまないのが、戦争でのひとつのルールであった。無差別絨毯爆撃は、工場といわず住宅といわず、都市そのものを、絨毯のように厚くくりかえし爆撃をし、地上にあるあらゆるものを消しつくす作戦で、日本では焼夷弾で焼きはらうという焦土作戦がとられた。こうして戦争がおわる8月15日までに、47番目の候補であった青森市をふくむ64の都市が焼きはらわれた。米軍は、東京、大阪、名古屋、神戸の大都市をはじめ、順に中都市、小都市と、最後の熱海まで、180を候補にあげいた。日本政府は「たとえ戦時下であっても、市民をねらった無差別爆撃はゆるされない」と声明。放送は「ネロ皇帝のおこなったローマの破壊をおもいおこされる」と批判したが、爆撃の作戦を立てて実行したルメイ爆撃司令官は「日本の都市の家はすべて軍需工場で、鈴木がボルトをつくれば、隣の近藤がナットをつくっている。私は日本の民間人を殺したのでなく、軍需工場を破壊したのだ」とのべている。こういうかんがえが広島、長崎の原爆投下につながっていったと、指摘する人もおおい。